
浮世離れした人なのではないか─。そう思っていた。
“ニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールでフランク・シナトラとボブ・ディランと共演した”“北朝鮮の金正日総書記から白頭山の天然記念物の犬を贈られた”“アラブの王族から支払われたギャラが石油だった”“バービー人形で有名なマテル社と契約し、『テンコー人形』が全世界で800万体以上売れた”。
これらトンデモ話に聞こえるエピソードが、世界中の大富豪の前でショーを披露してきた世界的イリュージョニスト・プリンセス天功にとっては正真正銘の実話。エピソードの規模が規格外すぎて、存在自体がイリュージョンのようだからだ。
アイドルから見たプリンセス天功
現在、天功は、メインMCを務めるレギュラー番組『プリンセス天功のアイドル☆KING』(TOKYO MXほか)で、現役アイドルたちとトークを繰り広げている。番組で共演経験のあるアイドルグループ「仮面女子」の蒼井乃々愛さんはこう話す。
「天功さんは、高貴なオーラを纏われている一方で、素顔はとてもチャーミングな方なのではないかなと思います。とてもにこやかで優しい雰囲気で、天功さんのおうちや飼ってらっしゃるホワイトライオンのKINGくんのことを楽しそうにお話ししてくださって、とても楽しい時間でした。もっともっとお話ししたくなるような、不思議な魅力をお持ちの方です」
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天功自身、もともとはアイドル「朝風まり」としてデビューした背景を持つ。
「私がアイドルだったころは、『おはようございます』『お疲れさまでした』『ありがとうございます』以外は言うなという時代でした。でも、今のアイドルの子たちは自分でいろいろなことを考えていて、こちらが刺激をもらうくらい(笑)。頼もしいなって思います」
しかし、数奇な運命によって「朝風まり」は封印され、二代目引田天功を襲名することになる。
「トロッコに乗っけられて、ぽんと押された感じです」
そう微笑むと、彼女はゆっくりと自身の半生を振り返り始めた。
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長生きできないだろうから「生きた証し」を
天功は、3人きょうだいの次女として新潟県に生まれる。母は新潟県高田藩主榊原家の末裔で、父も由緒ある武家の流れをくむ名家だった。ウソのような話だが、天功の出自は“世が世ならプリンセス”なのだ。幼少期から着物の着付けや日舞、ピアノ、クラシックバレエなど習い事にいそしみ厳しく育てられたが、乳幼児のときに閉じるはずの頭蓋骨が閉じていないという難病「頭蓋骨破裂」を患っていることがわかる。渡米し、手術を受けた後も、病弱であることに変わりはなかった。
「母は私が18歳まで生きることはできないだろうと思っていたみたいです」
この子が生きていたという証しを残したい─。そう願った両親は、多くの人の目に触れるだろう女優業をすすめ、天功は高校生のときに上京。母のいとこだった森康明氏が社長を務める芸能プロダクションで育てられるようになる。「日本の脱出王」の異名を誇った脱出マジックのパイオニア・初代引田天功、その人のプロダクションだった。
「私はプロのマジシャンになりたいと思っていなかったので、初代の前でマジックをやってみることがまったく怖くなかったんですね。『やってごらんなさい』って言われると、踊りの振り付けのような感覚で全部できてしまって。
周りのお弟子さんは、初代に憧れているから、緊張でうまくいかない。だけど、私はできてしまう。兄弟子たちに『おまえも失敗しなきゃダメだ』なんて言われたこともありました(笑)」
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天功には天性の素質があった。ショーではアシスタントを務め、NHKのドラマに出演するなど、生きている証しを残すようになっていく。
そして、運命の18歳を迎えた年のこと。
なんと、初代引田天功が心筋梗塞で倒れ、一時的に入院することになってしまう。事務所は初代が出演予定だった『恐怖の空中ケーブル大脱出』(日本テレビ系)の代役を立てることに。ギャランティーを前払いで受け取っていたため、契約をないがしろにできない。危険を伴う挑戦。熟考の末、森氏は天功を見て、「あなたがやりなさい」。青天の霹靂とはこのことだろう。
「『私は18歳までしか生きられないのだった』って。ならば、誰かのお役に立てるなら、自分の役目を果たせるだろうなって。そのときはそんな感じに思っていました」
初代引田天功のサイズに合わせて作られた道具は、はるかに体重が軽かった彼女の身体に反応せず、脱出は思うように進まなかった。息も絶え絶えでなんとか脱出したものの鼓膜は破れていた。それでも、天功はカメラの前で毅然と振る舞い続けた。
可憐な少女が死の淵から生還した姿は、かえって話題を呼び、番組は大成功を収めることになる。だが、衆目を集めた姿に嫉妬心を抱いた初代引田天功からは敬遠されるようになり、社長である森は天功に可能性をかけ、独立を決意。
18歳で命が尽きるはずだった少女は、マジックのできるアイドル「朝風まり」として生まれ変わった。
「アイドル時代は、ファンの皆さんも温かくて、歌手の先輩たちも優しかった。正直なことを言うと、マジックの世界は風変わりで厳しい世界でした。意地悪されることも珍しくなかったし、人格を疑うような行為も目にしました。ですから、朝風まりとして活動しているときはとても楽しかったです」
ところが、それから数年後。初代引田天功が再び心筋梗塞を起こし、急死する。初代の後援会関係者たちが後継者候補に選んだのは、キャリア20年の初代の弟子、初代に10年間師事していたマジシャン、そして初代のもとを離れた天功だった。
「『無理です』と断りました。ですが、後援会の皆さんがずらっと並んでいるところに連れていかれて。反論の余地もなく、結局私が“二代目引田天功”というトロッコに乗せられてしまいました」
天功はあっけらかんと笑う。だが、プレッシャーは想像を絶するだろう。
「襲名後は、マジックをゼロから勉強する必要があったので、マジックの百科事典と呼ばれる『ターベルコース』をはじめ、膨大な量の知識とスキルを覚えました。それと同時進行で、初代が予定していた公演もこなさなくてはいけなかった」
輪をかけて、浪費癖が激しかった初代が残した借金まで背負わなければならなかった。
「アイドルのときから『疑問を持つな』と言われていたからでしょうね。やれと言われたら、“やる”しかない。何かに押されている以上、ブレーキはかけられない。何ともいえない不思議な感覚なんです」
脱出のアクシデントで血液交換を……
「危ない! 早く助けろ!」
浜名湖に怒号と悲鳴が飛び交う。1985年9月に放送された『天功大脱出 浜名湖炎上遊覧船大爆破!』(フジテレビ系)は、天功自身が「死を覚悟した」と振り返るほどの大脱出だった。
脱出の概要はこうである。起爆装置となる小型遊覧船が大型遊覧船に衝突し、その拍子で大型遊覧船が爆発する。衝突するまでのタイムリミットは3分間。その間に天功は手錠を外し、カプセルを脱出しなければならない。筆者自身、何を書いているのだろうと思うほどの情報量の多さだが、とにかく「炎に包まれる前に脱出せよ」というわけである。
ところが、天功のカプセルが積まれた大型遊覧船にセットされたガソリン1000リットル(ドラム缶5本分)と爆薬160個が、衝突する前に爆発。端的に言えば、事故が発生し、遊覧船2船はたちまち業火に包まれてしまったのだ。誰の目から見ても“大惨事”だった。
「なんとか脱出しましたが、そのまま救急車で運ばれICUに。煙を大量に吸っていたので、血液交換をしなければならず、脳挫傷寸前だったとも言われました。翌日の新聞には、『脱出失敗』と書かれてしまい、そうなるとさまざまな関係者に迷惑をかけてしまう。それで、『これはすべて演出でした』と私が弁明する事態になってしまって……」
そう苦笑交じりに話すのだが、どうして彼女が謝らなければいけないのか。どうしてそこまで自分を殺すことができたのか。
「自分の業であると思ったんですね。人間はイヤなことをやらないと生きていけないんだって。18歳で死ぬかもしれなかった私が生きていくためには、イヤなことをやらないと、神様は『生きていていい』と言わないんだと考えていた」
では、両親はどう感じていたのだろうか?
「わからないんですよね。というのも、上京したとき、森さんから『芸能界は難しい。覚悟がなければ続けられないから、両親の言葉に耳を傾けると迷ってしまう。だから、絶対に会ってはいけない』と言われました。手紙が事務所に届いても、森さんは私に見せなかった。両親と再会したのは、15年くらいたってからだったかな」
彼女の言葉を聞いていて、鳥肌が立った。人間としての覚悟や諦観が尋常ではない……。
「マジックは、神秘的な世界だから笑ってはいけないとも教わりました。二代目を襲名してからは、声を出して笑うことはせず、面白いことがあっても目を伏せるようにしていました。この時代は、笑うことを忘れていた(笑)。ただ、視聴率を取れと言われたり、失敗したと言わなくてはいけなかったり、そういった葛藤は苦しかったですね」
この時代、天功率いる「東京魔術団」のメンバーとして、ショーのアシスタントを務めていたのが、タレントのほいけんたさんだ。懐かしそうに振り返る。
「人の目があるときは、天功さんは演じるように二代目引田天功であり続けた。でも、仕事が終わると、下っ端の僕にも気軽に『ウチで餃子パーティーをするから来ない?』なんて声をかけてくれるような人でもありました。当時の僕は、食べるのにも困っていたから渡りに船。『これで飢え死にせずにすみます!』と身の上話をしたら、帰るときにたくさんの食材をいただいたこともあった」
実際は笑い上戸で、ほいさんの言動を「いちいち面白がってくれた」という。
「お姫様のように細かいことは一切しませんといったイメージが天功さんにはあるかもしれないけど、実際は気配りの人なんです。僕が『風呂なしアパートに住んでる』と言ったら気軽に『うちのお風呂使っていけば?』なんて言ってくれて。『おいおい、ずうずうしすぎるぞ』と、先輩たちに制されたのもいい思い出です(笑)」(ほいさん)
イリュージョンのアイデアが止まらない
二代目として、脱出マジックを引き継いだが、己の道も歩んでいく。衣装やライティング、特殊効果にいたるまでを計算し、幻想を具現化する空間プロデュース、いわゆる「イリュージョン」である。多忙を極める中でも、常に新しいイリュージョンを作り続けた。
「眠ると夢の中にイリュージョンのアイデアが現れ、起きたらそれをノートに書き留めていました。人造人間をつくったり、湖の上を歩いたり、湯水のようにアイデアが湧いてきたんですね」
彼女のポスターを手がけ、友人でもある美術家・横尾忠則は、『プリンツ21 2001秋号』の対談内で、彼女をこう評している。
「トリックの原型というのは、うんと小さい子に“いないいないばー”ってやるでしょ? ものを隠してパッと見せたり。マジックじゃなくても、そういうことで子どもは喜びますよね。そこにマジックの原型があると思うんです。騙されることの喜びみたいな。それを彼女の場合は一つの作品として見せている」
大勢のアシスタントを従え、音楽とダンスを取り入れながら、観衆を魅了し、欺く天功のショーは革命的だった。ましてや、それらを従えているのが華奢な女性なのだから、観衆は一層とりこになった。その一人が、後にアメリカ進出をサポートするラーセン夫妻だ。生涯、天功が「アメリカの父と母」と呼ぶほどの恩人だが、これには理由がある。
「私が幼少期にアメリカで脳の手術を行った病院は、ラーセン夫妻が経営していました。その縁で日本で行われる私のショーを見に来てくれたのですが、とても気に入ってくれて。帰国後、2人はアメリカのマジックの権威のある雑誌『ジニー』に私のショーを紹介してくれました」
'80年代後半、天功の名は欧米のショービジネス界に知られることとなる。よりインパクトをもたらすため、名前も二代目引田天功からプリンセス・テンコーへとメタモルフォーゼした。パリの「キャバレ・ド・シャンゼリゼ」劇場でのショーを大成功させると、唯一無二のオリジナルショーは、オランダ、イギリス、アメリカでも熱狂を生み出した。そして、1990年、マジック界のアカデミー賞といわれる『マジシャン・オブ・ザ・イヤー』大賞に選ばれると、プリンセス・テンコーの名は確固たるものとなる。白人以外、しかも女性としても初という大快挙だった。
人気はより加速する。サバーン社によるアニメ『テンコー&ザ・ガーディアンズ・オブ・ザ・マジック』が全米約60局で放送され大人気アニメに。さらには、バービー人形で知られるマテル社と契約し、『テンコー人形』を発売すると大ヒットを記録。運命を背負い、危険な脱出に挑み続けた日々が、ようやく報われた……と思いきや、「自由がないという意味ではあまり変わらなくて」と天功は微苦笑する。
「アメリカのショービジネスは日本以上に厳しく、契約で決めたことは完璧にこなさなければいけません。また、私はマテル社と契約したことで、“永遠に24歳”ということになってしまったし、日本人ではなく、アメリカ生まれのアメリカ育ちの日系人というキャラクターに。自分の意思で髪形を変えることもできなかったので、まさにアニメキャラのような存在です(笑)」
莫大なギャランティーを手に入れるも、多忙を極めすぎて、使う時間はなかったという。「島を購入しても遊びに行けなかった」と吐露するが、飛び出す話が規格外すぎて、下手な手品を見ているよりもこちらは目を丸くしてしまう。
とりわけ、1998年4月に行った北朝鮮公演は特筆すべき伝説の一つだろう。
前年、上海公演を行った際に、それを見ていた金正日総書記(当時)の特使から北朝鮮公演のオファーをされたという。
「金総書記に会うと、私のお人形を持っていて、『日本人だとは思っていなかった』と驚かれていました。ショーは無事に終わったのですが、『劇場も造って、豪邸も造る。お手伝いさんもいるから帰らなくていい』と言われて、なかなか帰らせてくれない(苦笑)。結局、帰るのに1か月以上かかってしまいました」
外交問題に発展しかねない話だが、世界各国を渡り歩く天功にしかできないスペシャルな民間外交ともいえる。いたずらっぽく笑って、こんなことを話す。
「プーチン大統領からも犬をプレゼントされ、中国からは西太后が飼っていた犬種をいただきました。その他にもたくさんの国からワンちゃんを贈られました。わが家だけでASEAN会議ができるくらい。ワンちゃん同士は、みんな仲がいいんですけどね」
時折ジョークを織り交ぜて自身の過去を振り返る天功は、“気さく”な人でもある。
「けむに巻いてもらっても構わないのですが」、そう前置きして、「噂になったハリウッド俳優、ジャン=クロード・ヴァン・ダムとの婚約報道って何だったんですか?」と切り込んでみた。
意外にも、すんなりと全貌を語る。
「そもそも、ハリウッド俳優と交際しているという話が日本のワイドショーで紹介されたんですね。固有名詞が出てこないことをいいことに、公開を控えていた映画のプロモーション会社が、あたかも私と噂になっているのがその方であるかのように宣伝したというのが真相です。契約上、こちらから何かを語ることはできないため、噂が独り歩きして」
計画して生まれたホワイトライオンへ愛情を注ぐ
恋の噂は多々あったが、彼女にとって心を許せるパートナーは、「動物たち」だという。自身で多種多様の動物を育てるだけでなく、AWF(アフリカ野生動物保護財団)の日本親善大使に就任するなど、その“動物愛”は筋金入りだ。
「ラーセン夫妻からは数えきれないくらい大切なことを教わりましたが、その一つが動物との関係です。動物は人間のことがわかるし、話すことができるって。たくさんの動物たちに救われてきました」
現在は、世にも珍しい1歳半のホワイトライオン「KING」を日本で飼育し、その愛くるしい様子は彼女のインスタグラムなどで確認することができる。スケートボードに乗って楽しそうにはしゃぐKINGの姿は、彼女の言葉を裏づけるようだ。
「ただのペットではないということを知ってほしくて、『Magical Jungle』という曲を出すことにしました。私とyucatさん、KINGの3人で歌っているのですが、KINGの“ガオー”を録音するのが大変で。いつも“ニャオニャオ”って言うばかりで怒らないんです(笑)」
実は、ホワイトライオンを育てるという夢は30年前から計画してきたことで、一つひとつ手順を踏むことで、正式に飼い主として認められた経緯があるという。取材に同席した、長年、彼女を見てきたマネージャーは、「天功は常に何十年という計画を持って動いている」と舌を巻く。それを横で聞いていた天功が、頷きながら打ち明ける。
「『自分のことは残しておきなさい』と言われたので、私は18歳のときにアメリカで卵子凍結を行っているんですね。その子たちが、もしかしたら二代目プリンセス天功になってくれるかもしれない。ただ、私自身、100年後の日本を見てみたい気持ちがあるんです。ですから、心臓が止まっても冷凍保存してもらうところに予約済み。
世界のお金持ちはだいたい100年で契約しているみたいですが、私は1000年先まで。医学の進歩次第ですけど、1000年後もプリンセス天功は生きているかもしれない」
人形浄瑠璃、歌舞伎の作者である近松門左衛門は、“芸術の真実は、虚構と事実の間の微妙な境界線に存在する”という「虚実皮膜論」を提唱した。天功を前にして、筆者はそんなことを思い出していた。
「私のショーは場所を選ばない」
そう彼女は話す。依頼された規模感によって、変幻自在にイリュージョンを創り出す。例えば、大阪・関西万博と連動する形で行われている「大阪グルメEXPO2025」では、わずか300人ほどが入ると満員になる屋内テントで、彼女はイリュージョンを披露している。かと思えば、高級ホテルの大広間を舞台に、数人のVIPを相手にショーを行うことも珍しくないという。天功にとって大切なのは、客の数や舞台の大きさではなく、目の前の人を楽しませることができるか否かなのだ。
「よく話すのですが、私は『あれはよかった』とか『楽しかった』ということが一つもないんですね。次から次につくり上げていかなければいけない。楽しむのはお客様であって、私ではない」
二代目を襲名して以降、天功はずっとそれを貫徹し続けてきた。私たちは過去、今、未来という時間軸で生きているが、天功にはその感覚が「ない」という。だからなのだろう。令和の今になって当時放送されていた『大脱出』を見返しても、まったく色あせない。その挑戦に誰もが釘付けになる。周囲の期待や環境が変わっても、プリンセス天功が中心にあり続ける。あまりにも人間としてのスケールが大きく、すべてのことが天功を中心に回る─天動説の世界で生きているとさえ思ってしまう。
天功のライフワークの一つが、「世界各地に自らの財産を埋蔵金として埋めている」こと。まるで歴史上の人物ではないか。最近も日本国内6か所に埋めたと話したことが話題となった。
「バスツアーを組んで、皆さんと一緒に探すのもいいかも。ヒントはそのときに教えます」
にこっと笑う姿にイリュージョンを見た。プリンセス天功という人間的魅力には、タネも仕掛けもないのである。
<取材・文/我妻弘崇>
あづま・ひろたか フリーライター。大学在学中に東京NSC5期生として芸人活動を開始。約2年間の芸人活動ののち大学を中退し、いくつかの編集プロダクションを経て独立。ジャンルを限定せず幅広い媒体で執筆中。著書に、『お金のミライは僕たちが決める』『週末バックパッカー』(共に星海社新書)がある。