鮫島彩は2011年ワールドカップ優勝のなでしこジャパンの試合中に思った「なんでこんなに楽しいんだろう」

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2024年07月26日 10:10  webスポルティーバ

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今季引退・鮫島彩インタビュー(2)

 20歳の時、鮫島彩はなでしこジャパンに初招集される。そこは緊張する場所だったと彼女は振り返る。それでもその場所に食らいついたからこそ、サイドバックという道が開け、その先に見えたのが"世界一"。しかし鮫島は、そこから"欲"が芽生えた。日本中を沸かせ、多くの人が影響を受けたあの2011年のワールドカップ制覇は、もちろん鮫島にとっても大きな分岐点となった。

【サイドバックへのコンバートはチャンスだと思った】

――なでしこジャパン初招集は2008年でしたね。

 喜びっていうよりは緊張です! 知らされた瞬間から「どうしよう、どうしよう」って緊張しまくってました。当時の私にとって、なでしこジャパンは目指す場所とかじゃなくて、もう単純に憧れの存在。シンプルに日本代表のユニフォームを着て戦うってカッコいいじゃないですか。だから......怖かった(笑)。でもそこには誇りがあって。代表とはそういう場所です。

――鮫島さんと言えばスピード! というイメージがありますが、いつ頃から意識していたのでしょうか?

 もともとドリブルやシュートは好きだったんですけど、スピードに対しての自覚はあまりしていなくて。明確に自覚したとすれば、ノリさん(佐々木則夫監督)に、サイドバックにコンバートされた時かもしれません。それってスピードを買ってもらったからとしか考えられないじゃないですか? サイドバックなんてやったことないから、最初に言われた時は、もうそれは「抜かれても文句言わないでね」って感じでした(笑)。

――前めのポジションだったのに、DFへのコンバートはすぐに割りきれたんですか?

 自分が代表で生きていくには、そこしかないというのはすぐにわかったので。そこに定着している人がちょうどいなかったし、「ここのポジションは今、チャンスだな」っていうのはありました。私は代表に入りたてだったんですけど、ラッキーなことに(安藤)梢ちゃんもサイドバックにトライしていたんです。緊張のなかだったけど、梢ちゃんとはタメ口で話せるからいろいろ聞いていました。

――そこから3年かけて、2011年W杯でついに覚醒。コンバートから始まったサイドバック人生、思い描くサイドバックとしてフィニッシュテープは切れました?

 うーん......まだまだやってみたいプレーはありましたし、向上心もあったので。それは描いていたものにたどり着けたかと言われたら、そうじゃなかったかもしれません。でもそれはてっぺんがないことなので。

【2011年ワールドカップ優勝で"欲"が出た】

――2011年ワールドカップでは、宮間あやさんと左サイドを組むことで、鮫島さんのサッカーも変化したのではないでしょうか? ふたりがすごく楽しそうに見えていました。

 ホントに楽しかったです! あやさんとサッカーをやっていると「楽しい!」って感じるんですよ。プレー中にそう感じることって基本ないんです。常に頭がフル回転しているから。でも、あやさんと組んでいる時って、なんでこんなに楽しいんだろうって、試合中なのに思っちゃう。

――試合中に大爆笑していることもありました。

 そう(笑)。一番テンションが上がるのは、私はどっちかというと攻撃的なので、前に走って行きたいんですけど、走ると必ずいいボールが出てくるところ。あやさんが最高のボールを出してくれるあの感覚って、あのメンバーだったからですね。

 でも、意外と守備の時も面白かったんです。あやさんは、後ろにいる自分がやられる姿を見たくないと思って、前線から守備をしてくれるんです。とにかく協力! そんなつながりがふたりだけじゃなくて、11人でサッカーをやっているんだというのを本当に実感できるのがあのメンバーでした。

――そんな2011年の優勝、今振り返るからこそ言えるあの大会で得たものとは?

"欲"じゃないですかね。トップに立ったと言っても、あの時日本はダークホースで、日本への対策がそんなにされてなかったじゃないですか。ドイツにしてもアメリカにしても、まさか日本に負けるなんて思ってなかったと思うんです。この先、戦って結果を残すのは確実に難しくなるのはわかっていたし、優勝したとはいえ、自分のプレーが満足いくものでもなかった。

 もっとうまくなったらあやさんに、澤(穂希)さんに、(阪口)夢穂にいいパスを出せる。そうしたらチームがよくなる。少しでもチームの役に立ちたいっていう欲が出てきた大会でした。

――それは翌年のロンドン五輪ですごく苦しみながら銀メダルを獲ったことで、多少は満たされました?

 全然です! きっと金メダルを獲ってもそうは思えなかったと思います。この欲はずっと満たされないものなんじゃないかな。だから、延長に次ぐ延長でここまでサッカーをやり続けたんだと思います。

【フランスでは文化のギャップにやられた】

――ステップアップのひとつとして、2011年はボストン・ブレイカーズ(アメリカ)を含め、モンペリエHSC(フランス)と海外クラブを経験しました。

 フランスは文化のギャップにやられましたね。でも、いちばん学びがあった時期でもありました。今まで日本でやってきたことを全部覆されたんです。例えばケガした時、日本ではそれを隠してプレーするのが美学みたいなところがあったじゃないですか。自主練すること自体が評価されたり。そういう文化のなかで育ってきていると、自分がやったことで自己満足するんです。それを否定するわけではないけど、結果に結びついてこそだから。

――努力をすることがよしとされる日本の流れがあって、無理をせずに引くこと、休むことでベストを出せばそれも正解。鮫島さんの姿勢はフランスでの経験があってのことだったんですね。

 フランスでは、カバーリングに入ったら、「なんでカバーリングしてんの!」ってキレられるし(笑)。(宇津木)瑠美(当時モンペリエでチームメイト)と試合の前日に自主練でボール蹴っていたら、チームメイトに「明日、試合だぞ!(※コンディションを大事にという意味)」って胸倉掴まれたこともありました。日本だったら、練習せずに帰ったら怒られますよ。面白いですよね。でもそういう選手が試合で結果出すんですよ。

――その考え方は、鮫島さんのサッカーキャリアにすごく生かされていますよね。

 そうなんです。ケガも減ったんですよ。でも日本人が暑い場所での世界大会とかでなんで体力が続くのか、頑張りきれるのかってなると、そういう環境でやってきているからタフさが身についていると思うんです。苦しい時でもがんばれるのは日本の強さ。だから「いいとこどりをしていけるな」って思いました。サッカーだけじゃなくて、今後の人生にも生かしていけることを学んだと思います。
(つづく)

(1)鮫島彩の高校時代の本音「3日に1回は辞めたい!って思ってた」>>

鮫島 彩 
さめしま・あや/1987年6月16日生まれ。栃木県出身。常盤木学園高校から2006年に東京電力女子サッカー部マリーゼ入り。2011年からはボストン・ブレイカーズ(アメリカ)、モンペリエHSC(フランス)でプレーし、2012年に日本に戻ってベカルタ仙台レディースに入ると、INAC神戸レオネッサ、大宮アルディージャVENTUSとチームを変えて長くプレーを続け、2023−24シーズンをもって引退した。2008年よりなでしこジャパンに選ばれ、優勝した2011年を含め、女子W杯に3度出場。

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