一時保護されたオウム真理教の子どもの学習ノート(山梨県中央児童相談所の開示資料より) 1995年4月から8月にかけ、全国のオウム真理教の施設から、1〜15歳の112人の子どもたちが児童相談所に一時保護された。最多の53人を保護した山梨県中央児相には「はやくオウムにかえせ」と書き殴られたノートなど、当時の資料が残されている。
情報公開請求の開示資料によると、95年4月14日、山梨県旧上九一色村の教団施設から保護された子どもたちの顔は青白く、おびえた表情をしていた。職員の問い掛けにも「分からない」「知らない」と答えるばかりだった。
教団施設の「第10サティアン」と呼ばれた建物2階で生活。毒が散布されていると教えられ、ほとんど外に出ることはなかった。
劣悪で不衛生な環境の中、1日4〜5時間の修行が日課で、学校に行くことは許されず、1日1時間程度勉強するだけだった。「お供物」と呼ばれる食事に肉や魚はなく、パンやラーメンなどを1日2回。腐ったバナナやカビが生えたまんじゅうも食べるよう指導され、残すと罰を受けた。
出家すると親子は別々に生活し、「親に会いたい」と訴えると「修行が足りない」と退けられた。友人関係は希薄で、子ども同士がお互いを監視していたという。
山梨県中央児相は95年7月までの間、住民票などがある各地の児相に53人を順次移送した。「本当は、反対のことを言っていたの」。同児相の判定課長だった保坂三雄さん(78)は、約3週間の一時保護を経て、別の児相へ移送された子どもが本音を漏らしたのを覚えている。
オウムの子どもたちは「現世で楽しい思いをすると死んでから苦しむことになる」と教えられていた。一時保護されて2カ月ほどたつと、ようやく「おいしい」「楽しい」という感情を口に出せるようになったという。
保坂さんが面接した子どもたちは、教祖や教義のことしか語らず、社会への関心も示さなかった。「教団施設の生活で、『自分』について考えることは次第に無くなっていったのだろう」と分析する。
各地の児相で一時保護された子どもたちを調査した厚生省(当時)研究班の報告書によると、112人のうち68人が親族に引き渡され、44人が施設に入所した。ただ、その後の足取りは不明だ。保坂さんは「歴史的な事件で、決して忘れ去られてはいけない。残された資料が、何らかの教訓につながることを望んでいる」と語った。
公安調査庁によると、教団の後継団体「Aleph(アレフ)」の施設では、親に連れられた未就学児や小学生の出入りが確認されている。同庁は「動向を注視していく必要がある」としている。

オウム真理教の子ども53人を受け入れた山梨県中央児童相談所だった建物の前に立つ保坂三雄さん=2月26日、甲府市