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ソウル・フラワー・ユニオン初の評伝『ソウル・フラワー・ユニオン 解き放つ唄の轍』(河出書房新社)が刊行された。彼らを追いかけ続けたフォトグラファー/音楽ジャーナリストの石田昌隆・著による渾身の一作である。「音楽は、ミュージシャン個人の内面から出てきたものより、ミュージシャンを媒介して、ひとかたならない現実の断片が吹き出してくるところを捉えたもののほうがズシンと伝わってくる」(本書より)という著者の音楽観が明かされ、それを体現する存在としてのソウル・フラワー・ユニオンが描かれる。阪神淡路大震災、東日本大震災、寄せ場、韓国、東ティモール、パレスチナ、アイルランド、辺野古、そして官邸・関電前と、世界中のさまざまな現場と関わり、世界中のさまざまな音楽と交わることで形作られ、いまもなお変容し続ける稀代のミクスチャー・バンドの現在に至る道を鮮やかに照らし出した、必読の一冊である。
今回の取材では、同書からこぼれ落ちた、あるいは描かれなかった彼らの一面を浮き彫りにすべく、リーダー中川敬への取材を試みた。
(参考:ザ・スミスの後継者はなぜ生まれない? 伝説的UKバンドの「特異な音楽性」に迫る)
●94、95年くらいから「ロック」というより「音楽」を好きって人たちが増えた
――大変な力作で、私は「ソウル・フラワー・ユニオンの本」というよりは、「石田昌隆の本」というふうに受け止めました。読んでみていかがでした?
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中川敬(以下、中川):これは力作やね。自分のことながらグッとくる箇所が何箇所もあって(笑)。神戸や女川(宮城県牝鹿郡)のことを書いた章とか。
――私が本書でまず興味深かったのは、92〜93年ぐらいにニューエスト・モデル〜ソウル・フラワー・ユニオンのアルバム・セールスがピークを迎え、『クロスビート』の人気投票で上位に来たり、『ロッキング・オン・ジャパン』の表紙を再三飾るなどロック・フィールドからの評価も得ていた、しかしソウル・フラワーが結成当初の理念を追求し実践していく過程で、「次第にいわゆるロック・ファンは少しずつ離れていき」、代わりに「新たな層の人々に届くようになっていった」、というくだりです(56ページ)。中川くんもそういう実感があったんでしょうか。
中川:当時はライヴ会場でよくアンケートをとってたよね。<ソウル・フラワー以外に好きなバンド>という項目の答えが、どんどん変わっていったのは覚えてるな。ニューエストの初期の頃はいわゆるパンク・バンドの名前が多くて、それが徐々にボ・ガンボスやフリッパーズ・ギターの名前が増えて、(喜納昌吉&)チャンプルーズが出てきたりとか。とはいえ、そこにはDIP THE FLAGみたいな人たちの名前も出てきてたり。幅広いロック・ファンから聞かれてるんやなって思ったけど、ソウル・フラワー・ユニオンになってから、俺らのファンが『ロッキング・オン』や『クロスビート』を読みながらロックを聴くようなリスナーだけではなくなり始めたことは確かやろうね。
――それはどう感じてたんですか。
中川:まあ、そのまんま受け止めてたけどね。自分らのやりたいことがあるから。ただ面白いなと思ったのは、人は上々颱風とかチャンプルーズみたいな名前ばっかり挙がってたと思うかもしれんけど、実は中島みゆきとかサザン・オールスターズみたいな人たちの名前を書く人が増え始めたっていうことでもあった。94、95年ぐらい。震災の前後の頃。一般的な音楽ファンが聴き始めたっていうことやね、現象としては。だから「ロック」というよりは「音楽」を好きっていう人たちが増えてきたという。確かに、当時の感覚では、もっとロック・ファンに来てほしいというのはあったけど。
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――自分たちとしては、バリバリのロックやってるって自覚あったんですか。
中川:今もあるよ(笑)。
――いやいや、それはわかってるって(笑)。ソウル・フラワー・ユニオンの結成宣言文(93年)には「“個人単位に於ける創造が”希薄な“仲良しクラブの余興”とは一線を画し“」という表現があります。石田さんはこれについて「日本のポピュラー音楽が構造的に抱えている問題点を見事に突いていた」と書いていますが、実際そういう実感、不満はあったわけですか。
中川:いや、鳴ってる音楽自体に関してはね、当時おもしろいものがどんどん出てきてるっていう実感のほうが実は強くて。フリッパーズ・ギターとか大好きやったしね。フィッシュマンズとかもこの頃に出てきた。オリジナル・ラヴとか。これからどんどん面白いものが出てくるんやろうなっていう感じがあった。ああいう切り口でやりたいとは思わなかったけども、彼らが出てきて嬉しかった。プロダクション・ワークの質がグッとあがったというか。サウンドの質、アレンジの妙。英米ロックの引用をやってきた日本のロックが、引用のレベルがちょっとあがったというか(笑)。いやいや、それは嬉しかったし、刺激を受けたよ。バンド・ブームの頃はその辺が不満やったからね。大好きなボ・ガンボスですら、もっといいCD作ってや!とか思ってたし(笑)。特にフリッパーズ・ギターかなあ、はっきり覚えてるのは。
●進んで孤立したわけじゃないけど、俺らは違うぞ、っていうのはあった
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――当時、フリッパーズ・ギターと対談やってたよね。
中川:やったやった(笑)。『ロッキング・オン・ジャパン』で。彼らは目の中に星が入ってて、違う星に住んでる人たちやな〜と思ったけど(笑)。だから当時、日本の音楽カルチャーは面白かったんよ。ただ、あの頃は、俺も若かったから、業界の中の話で、同業者にがっくりくるような話を当時たくさん聞いてて……。
――たとえば?
中川:言わない(笑)。言ってもしょうがない話。まあ、簡単に言うと、いかに表現する側が自立していないか、自分たちで決めてやっていないかっていう…。表現者として、それはないやろう、と。当時の感覚やね。それがこういう宣言文に……まあヒデ坊(伊丹英子)と笑いながら書いてたんやけど(笑)。そういうものは強くあったな。
――そういう連中とは一線を画したいと。
中川:別に一線は画したくないよ。進んで孤立したいわけではなかった(笑)。でも俺らは違うぞ、っていうのはあったよね。当時は若かったし、自分らの考えが確としてあったから。今に続いてる要素もその中にはいっぱいあるし。根っからのパンク的な気質が一番出てた頃じゃないかな? 音楽的にはだいぶパンク・ロックの文脈から離れてたと思うけど、一番そういうのが強かった時期やと思う。今から振り返るとね。92年から95年ぐらい。俺らこそが真のパンクや!みたいな。当時はもちろんそういう風に言語化してあったわけやないけど、今から振り返ったらそういう感じがすごく強かった時期やな。
――パンクという言葉を使うといろいろ誤解を招くけど、精神としてはそうだったと。
中川:そう。あのころはパンクっていう意識、強かったね、モノノケ・サミットもそうやったし。俺は20代後半やね。10代後半にニューエスト・モデルを結成して、エッグプラントでライヴをやって、ハード・パンクな感じのサウンドで始まって、いろんな音楽、人間、現場と出会いながら95年まで辿り着いた10年間ぐらいっていうのは、相当パンクやったと思うよ。
――なるほど。でもそういう本人の意識とは別に、いわゆるロック・ファンは離れていったと。
中川:どうやろ? ニューエスト・モデル、メスカリン・ドライヴ、ソウル・フラワーみたいなのを好きなタイプの人たちっていうのは、常に、いつの時代もいて、例えば一旦離れてもまた5年10年ぐらいたつと戻ってくる、みたいな感じでずっとあって。今もそういう感じでやってるけどね。
――自分はずっとロックやってるつもりという話ですが、ロックの定義ってなんでしょう。
中川:ステージでああいう風にやる芸、やね(笑)。2~3年ぐらい前から弾き語りのライヴをやるようになって。弾き語りをやってると、みんなシーンとなって聴いてる。これは一体なんやねん!と思ったね(笑)。もちろんそれはそれで面白い世界なんやけど、それまで30年ぐらい、無数のアホウが踊り狂う世界でやってきてるから、弾き語りっていうのはすごく変な世界やなと(笑)。嗚呼、俺ってああいう(ロック・バンドの)世界でやってきた人やねんなと、あらためて痛感したわけ。“ロック芸”でずっと生きてきて、しかもそれこそが、俺の十八番やな、という。
――ロック芸、ですか。
中川:うん。歌詞聴こえないかもしれないけど、大音量でガーッとやって、それ聴いて、鬱屈した日常を抱えた人たちがみんな踊って騒いで、ワーッとなってちょっとはすっきりして、さあ明日から頑張ろう、さあ明日上司しばいたろって、家に帰っていくという(笑)。
――それが「ロック芸」の役割。
中川:誇れる労働。弾き語りでは実現できない世界がある。単に“聴く音楽”だけじゃない要素。やっぱりこれをやっていきたいというのはある。そういう意味での“ロック芸”。
――「芸」というからには、エンタテイメントという意識はあるんですか。
中川:もちろんもちろん。舞台に上がって、お金払ってくれたお客さんの前でやるんやから。
――本の中にも、被災地で演奏することで、求められているもの(歌)を提供するのが自分たちの仕事だと気づいた、というような発言がありますね。そこはやはり一番変わってきた部分ですか。
中川:徐々にやけどね。確かに95年のモノノケ・サミットが大きかった。その前から少しずつ始まってたことではあるけどね。ただそれまではもっとアート志向が強くて、これが俺らのアートや、みたいな。ただ、そこからいきなり芸人に転向したわけでもなんでもなくて(笑)。今でもアート志向は強くあるしね。自決の芸である、っていうことがかなめやね。(小野島大)
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