小説『アイスリンクの導き』第14話 「戦友」

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2024年08月16日 21:40  webスポルティーバ

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『氷上のフェニックス』(小宮良之:著/KADOKAWA)の続編、連載第14

 岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ、そして膝のケガで追い込まれながら、悲しみもつらさも乗り越えてリンクに立った先にあるものとは――。

 今回の小説連載では、主人公である星野がすでに現役引退後の日々を送っている。膝のケガでリンクを去る決意をしたわけだが、実はくすぶる思いを抱えていた。幼馴染の凌太や橋本結菜と再会する中、心に湧きあがってきた思い...。

「氷の導きがあらんことを」

 再び動き出す、ひとりのフィギュアスケーターの軌跡を辿る。
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第14話 戦友

 フリーランスのライターから預かった原稿を、土方歳三は「週刊ボンバー」編集部のデスクでリライト作業していた。深夜で静まり返っているが、ちらほらデスクに人は残っている。働き方改革はどうなったのか、出版社の週刊誌編集部の風景だ。

「これでもマシになった」

 先輩たちは言うが、まだまだ効率的ではない。

 目の前にある原稿のリライト作業もその一つだった。

 ライターには2種類いる。テープ起こしや出来事などを合わせたメモのようなものを原稿で提出するタイプ。完成された状態で原稿を提出するタイプ。今回は前者で、面倒くさくて仕方がない。リライトしたものをライターに確認させると、「ニュアンスが違う」と言い始める。
 
〈そんなら、自分で完成形を書けばええねん〉

 そう毒づきたくなる気持ちを抑える。
 
 機嫌の悪さは別に理由があった。計画どおりだったら、土方は今頃、全日本フィギュアスケート選手権が開催されている長野にいるはずだった。
 
「『週刊ボンバー』で星野翔平をグラビアで特集しましょう。それで全日本まで密着っていう企画で。元世界王者、元五輪王者で復活したアスリートを追いかける記事って、結構読まれるじゃないですか? 彼がフィギュアで歴史を作ったのは間違いないです。そのおかげで五輪王者たちが生まれているし。それに僕、フィギュアをやっていたことが少しだけあって、翔平とは知り合いなんです」

 編集部の企画会議で、土方は編集長にそう談判した。

 中1から中3まで、2年ちょっとだったが、フィギュアをやっていたことがある。きっかけは大好きだった女の子が「フィギュアスケートが好き」という安直な理由だった。しかし、初めて見ると夢中になっていた。周りは「始めたのが遅すぎる」とか、「似合わない」とか、「名前が名前だから、剣道でもやれば」と適当なことを言ってきたが、他の選択肢はなかった。
 
 運動神経に恵まれていたのか、トリプルアクセルだけはできるようになって、それが大技だったから自信がついた。ただ、本当は氷の上でダンスを踊るような選手に憧れていた。スリーターンからクロスロール、モホーク、チョクトウ、クロスを入れ、重力から脱却したように流れるように滑りたくて、必死に練習していた。

 そんなある日、大会で出会ったのが翔平だった。

 土方は心から驚いた。これがフィギュアなんだ、と悟った。どうしても知り合いになりたくて、帰り際、アイスをなめながら翔平が出てくるのを待っていて、知らないふりで声を掛けた。変な奴だと思われるのは承知で、新幹線の中でも一緒に座り、たくさんの話を聞いた。心が沸き立つようだった。

〈帰って猛練習や〉

 そう思った。

 しかし少し後に、病院の検査で心臓の弁に問題があることがわかった。普通の生活に支障はないが、「激しい動きのスポーツは勧められない」という医者の言葉だった。

 断腸の思いで、土方はフィギュアの道を断念した。「続けていても、トップレベルに行けるはずはなかった」と周りに諭されたが、それは違う。トップレベルに行けるかどうか、ではない。リンクに立ち、プログラムを演じ、衣装を着て、誰かに観てもらい、拍手を浴び、自分も他の選手の演技に感動する。そういう人生の一瞬を過ごしたかったのだ。

 だから土方は、翔平をずっと応援してきた。右膝前十字靭帯を断裂した時は、自分のことのように落ち込んだが、そんな逆境を乗り越える姿に、今度は勇気をもらった。生き様を詰め込んだようなスケーティングは美しく、胸を熱くさせた。応援するたび、自分も励まされているような気持ちになった。

 膝のケガから復活し、全日本に挑む前にインタビューできた時のやりとりは忘れられない。
 
「俺はお前と出会えたことを誇りに思っとる一人や。そういう連中はたくさんおると思う」

 土方が言うと、翔平は答えた。

「僕も歳三君と会えてよかった。どこまでできるかわからないけど、やってみる。生まれ変わったら、なんて言いたくない。まだ滑れる限りは、挑み続ける」

 翔平は言った。

「できるかどうか、よりも、やることや。悔いがない生き方を選べよ。これは、スケートができなくなった、星野翔平の永遠のライバルになるはずだった、土方歳三にしか言えへん言葉や」

「ありがとう、運命だって思うよ」

「それ、格好つけすぎやろ?」

「あは、そうだね」

 翔平は人懐っこい笑みを浮かべていた。できすぎなくらい、いい奴だった。話していると、気持ちが浄化されるというのか。不思議な感覚があった。

 その後、翔平は全日本優勝からミラノ五輪でもメダルを勝ち取り、世界王者に輝いた。
 
 土方は翔平が膝の痛みと戦いながら現役を続ける姿を、ずっと遠くから見つめてきた。声援を送り続けたが、痛々しくもあった。膝の古傷がどれだけ負担になっているか、スケートをかじった者には少しは共感できるからだ。
 
 だから引退を表明した時は、「お疲れさま」とだけ労いたかった。
 
 しかし翔平が去ったリンクは味気なく映り、大きな大会しか観戦しなくなっていた。フィギュアが嫌いになったわけではなかったが、翔平がいないことがさみしかった。翔平の奮闘に自分がどれだけ励まされていたのか、その喪失感に愕然とした。
 
 そんな暗かった日々に、光が与えられることになった。
 
「星野翔平、現役復帰?」

 ウェブのスポーツニュースを何気なくスクロールしていた時、目に飛び込んだ文字が輝いていた。

 それ以来、また一挙手一投足を追った。若いスケーターが走路に入ってきて衝突、棄権したこともあったが。近畿選手権では健在ぶりを示し、西日本選手権では優勝した。実は有給休暇を使って、すべて現地で見守っていた。
 
 だから、あきらめきれなかった。

「星野翔平、女性人気は今も健在ですよ。取り上げる価値があります」

 土方はそう言って、編集長を説得しようと粘った。しかし、すげなく一蹴された。全日本の期間は仕事が最高潮に忙しく、取材でもなければ現地には行けない。有休もすべて使っていた。

「土方、お前はうちらの雑誌がどの層の人たちに読まれているか、知ってるよな?」

「ハイ、年配の男性が多いです」

 土方は小さな声で答えた。

「年配ったって、定年前じゃない。平均で70歳以上だぞ。もう、老後をどう過ごすか、の方が大事なんだよ。役所に申請しないともらえない金の話だったり、最強の病院ベスト30だったり、血圧のコントロールや腰痛の治し方だったり、認知症予防法とかが知りたいんだ。前号の『ご臨終をどう迎えるか、お墓の特集』とかよかったじゃないか。ああいうの頼むよ」

「でも、スポーツ選手の記事はまだ読まれていますよ」

「野球だけな。年配の人たちの興味はそこから広がらないんだよ。フィギュアスケートなんて、五輪の時に一日だけ見て、メダル取れるか、って騒ぐだけでおしまいだよ」

「一日で勝負は決まらないですけどね」

「そういう一過性のもんだって言っているんだよ。グラビアやりたいなら、かつての大女優の還暦ヌード企画とかもってこい。シルバー世代が喜びそうなネタを」

 編集長は、捲し立てるように言った。

 土方は小さくため息をつきそうになりながらも、まだ食い下がった。

「けど、うちの雑誌を女性にも買ってもらえるチャンスじゃないですかね? 星野翔平は、今も相当に人気はありますよ」

「じゃあ、いつもうちの雑誌を買っている人たちはどうするんだよ。いきなり方針転換なんて、読者が離れるだろ。待っている人のために、必要な記事を届けることが大事なんだ」

 正論だったが、土方は編集長の言葉に苛立ちを覚えた。なぜ、こんなに閉鎖的なのか。少しも聞く耳を持たない。

「販路の再開拓をしましょうよ」

 土方が食い下がると、編集長は声に苛立ちを滲ませた。

「お前、うちが今どれくらいの部数か知っているよな? 全盛期の10分の1だぞ。広告収入は約20分の1。生き残るには、既存の読者層で食いつないでいくしかない。資金力のある週刊誌のように、スクープを連発させるような体力もないからな。それでも、文句があるなら、他の部署に飛ばすぞ」

「あっ、編集長、それはパワハラです。撤回した方がいいですよ」

 隣に座っていた副編集長が助け舟を出してくれた。編集長はそれ以上、何も言わなかったが、企画は流れでボツになった。

「死ぬ前に整理すべきこと」

 それをテーマにした原稿に向き合いながら、土方はまったく興味が湧かない内容だけに、リライトの意欲も湧いてこなかった。未来を切り開く世代に向けて届けたいのに、こんなものを作って何になる、という迷いやあきらめが消えなかった。編集長の頑迷な年寄り路線に怒りを感じていた。

 深夜、まもなく0時になるところで、リライト作業にめどがついた。編集長に原稿をワードファイルで送った。確認待ちだが、どこかの飲み屋で時間をつぶして明け方に戻るパターンだ。

 椅子に座った土方が腕を伸ばしてクロスして肩のストレッチをしていると、見回りの警備員が「おつかれさまです」と声をかけてきた。振り返って目が合ったので、軽く会釈をした。他に誰もいなかったからか、あるいは深夜特有の気やすさか、警備員は「昭和大女優ヌード特集、永久保存版にしました!」と少し照れながら言った。
 
 警備員は髪が薄くなって、顔も疲れていて、年齢は70歳を越えた風貌で、雑誌の読書層と一致していた。
 
「喜んでもらえてよかったです」

 土方は控えめに礼を言った。こんな雑誌をありがたく読む人もいるんだな、エロおやじ、と心の中で毒を吐いた。
 
「私、ずっと工場勤めだったんです。定年してやることもなかったんで、こちらの深夜警備で雇ってもらったんです。こちらの雑誌、ずっと愛読書にしていまして。私が見回っている一室でみなさんが作ってらっしゃるんだなっていうのが、とても誇らしくて」

 警備員は嬉々として言った。笑うと顔のしわが寄った。

「いや、そんな偉そうなもんじゃないですよ」

 土方は本心で謙虚に言った。暇つぶしの雑誌だ。

「私、10年前に女房を亡くしたんです。定年後は旅でもしよう、と話していたんですが、もう一人になってしまって。子どもも自立したので、毎日、特にやることもないんですよ。だからといって、そんなにお金が余っているわけではないですし」

 警備員は目尻を下げて言った。人のよさそうな感じがある。

「読んでもらって、ありがとうございます」

 土方は少ししんみりとなって言った。

「発売日、1週間に1度の人生の楽しみなんです。特集もそうですが、コラムも面白いです。自分たちの世代の人間が楽しめるものを、考え抜いて作ってくれているなって感謝しています。編集部はみなさん、あなたのように若い方ばかりなのに」

「いや、僕は何も」

 土方はなんと返したらいいのか、ばつの悪さを感じた。反発していた編集長の言葉の数々を思い出す。納得したわけではないが、さっきとは少し違う響きだった。 

「すみません、お邪魔して。お仕事、頑張ってください」

 警備員は、土方がそれ以上何も言わなかったので、そう言って頭を下げながら出て行った。

 土方は、呆然としていた。目の前に山積みになっている雑誌が、そんな風に読まれているのを忘れていたのだ。すぐそばに読者はいた。

「また、昭和大女優ヌードの企画でもするか」

 すっかり冷めたコーヒーを飲みながら、土方は一人呟いた。

 思い起こすと、読者の反応は悪くなかった。高齢者向けの雑誌だからか、逆に今でもお礼のハガキが毎号のように届く。このネット時代に驚きである。達筆で内容を激しく非難するものもあるのだが、一方で心を込めた称賛のメッセージもあって、それは「やっていてよかった」という気持ちにさせられた。ただ、最近はハガキアンケートも読まなくなっていた。

〈自分たちが届けた一冊が、誰かの役に立っているなら、それは幸せなことではないか〉

 土方は胸に熱さを感じる。翔平がたくさんの人を幸せにしているのに比べたら、ちっぽけなものだが、確実に届いていたのだ。
 
「手を抜かず、最後までやったるわい」

 土方はPCのモニターに向かって小さく言って、もう一度、原稿を見直すことにした。これで救われる人がいるのかもしれない。そう考えて、気持ちを引き締めた。

「できたか? 土方」

 そこで、ほろ酔いで帰ってきた編集長の大声が聞こえた。

「今、やっています。さっき、一度送ったんですが、あれ、なしでお願いします。ちょっと見直したいところがあったんで」

 土方は答えた。

「ほうか」

 編集長はそれだけ言って、椅子に座ってからゲップを出し、しばらくすると軽くいびきをかいた。
 
 土方は丁寧にいくつか文字を打ち換えていった。より伝わりやすい言葉を選び、推敲していく。これが伝わるかどうか、なんて正直わからない。たぶん、意味はないだろう。しかし必死に伝えようとする努力は、いつだって何かにつながるはずだ。
 
「翔平、わいも戦っとるで。負けへん、お前が負けへんように、俺も負けへん。氷の導きがあらんことを」

 土方は、いつか翔平から教わった呪文を唱えた。

 日付が変わって午前2時、翔平が戻ってきた全日本の開幕の日である。 

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