関根潤三に請われヤクルトのコーチとなった安藤統男は、選手たちに激高「おまえらそれでもプロか!」

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2024年08月28日 10:01  webスポルティーバ

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微笑みの鬼軍曹〜関根潤三伝
証言者:安藤統男(前編)

【相棒として手伝ってほしい】

 関根潤三に「力を貸してほしい」と請われた男がいる。かつて阪神タイガース監督を務めた安藤統男だ。それまで、関根と安藤に接点はなかった。1986(昭和61)年、秋のことだった。当時、両者ともにユニフォームを脱いでおり、それぞれ評論家として日本シリーズ取材を行なっていた頃のことだ。

「86年の日本シリーズの取材で広島市民球場に行っていた時のことです。当時、ニッポン放送のアナウンサーだった深澤(弘)さんの仲介で、初めて関根さんに会うことになりました。すると、『来年からヤクルトの監督になるんだけど、アンちゃん、ちょっと手伝ってくれないか? チームを変えたいと思っているんだ』と言われました。この時、関根さんは僕に、"コーチとして"ではなく、"相棒として"と言ったんです。ひと回りも年齢は離れていましたから、この言葉は今でも印象に残っています」

 本連載において若菜嘉晴も言及していたように、関根と深澤は懇意の間柄にあった。ここでも関根は深澤を頼り、深澤は関根のためにアクションを起こした。この時、関根は「コーチとして」ではなく、「相棒として」と口にした。関根は安藤を尊敬し、同時にその指導力を欲していた。安藤の力がどうしても必要だった。関根が大洋ホエールズの監督を務めていた頃、安藤はタイガースを率いていた。関根の自著『若いヤツの育て方』(日本実業出版社)には、安藤について次のような記述がある。

 私が大洋の監督をしていたとき、彼は阪神の監督だった。チーム成績には恵まれなかったが、敵将ながらその采配にはたびたびうならされた。
「ここで、これをやられたらいやだな」
 と思っていると、きっちりそれをやれる指揮官だった。いわゆる相手の嫌がる采配のできる監督だった。私は当時から彼の指揮官としての頭脳を高く評価していた。

 この一節を安藤に告げると、「いやいや、とても畏れ多いです」と頭をかいた。

「でも、関根さんにそこまで言われたら、もちろん『イヤです』とは言えないし、こちらとしても、『ぜひ力になりたい』と思いますよ。それで、関根さんの言う『チームを変えたい』という思いを実現させるためにお手伝いすることを決めました」

 こうして、安藤は関根の近くで3年間にわたって、ヤクルトスワローズの土台づくりを担うことになる。若いチームを牽引する根幹に定めたのが「イケトラコンビ」こと、池山隆寛と広沢克己(現・広澤克実)だった。

【ヤクルト版・地獄の伊東キャンプ】

 就任1年目となる87年、アメリカ・ユマキャンプで安藤は愕然とする。チームに覇気がまったく感じられなかったからだ。活きのいい若い選手はたくさんいた。前述の池山、広沢だけでなく、キャッチャーの秦真司、飯田哲也、内野手には土橋勝征、外野手には栗山英樹がいて、この年新人王を獲得することになる荒井幸雄が揃っていた。

「だけど、それまでずっと低迷していたから、チーム全体が甘いんです。キャンプ終盤になると、『早く日本に帰りたい』という思いになって、練習にまったく身が入らない。だから、『ここはきちんと締めなくちゃいかん』ということで、みんなを集めて、『おまえらそれでもプロか、プロならば最後まできちんとやれ!』と怒鳴り散らして、積み上げてあったグラブの山を蹴り上げましたよ(笑)」

 このやり取りを見ていた関根はことのほか喜び、「アンちゃん、ありがとう、助かったよ」と告げたという。関根が求めていたものは「厳しさ」だった。それこそ、当時のスワローズに欠けていたものだった。そして、若い選手が多いからこそ、「プロとしての自覚」も求めた。安藤は、関根の意図をしっかりと汲み取っていた。

「これは後の話になるけど、オフシーズンになってから、静岡の伊東で秋季キャンプを行ないました。この時、池山や広沢を徹底的にしぼり上げました。朝10時から12時半までとことんバッティング練習をして、13時からは2時間ほどひたすらノックをする。この時、《ブドウ園》と呼ばれる練習もしました。かがんだ状態の高さにネットを張って、中腰のままノックを受ける練習です。頭の高さにネットがあるから立つことができない。ずっとかがんだままノックを受け続ける。これは相当、きつかったはずです」

 すると安藤は白い歯をこぼした。

「関根監督の2年目、88年のオフには長嶋一茂もこのキャンプに参加しました。彼はいつもブツブツ、ブツブツ文句を言っていました。ノッカーが『それぐらい捕れ!』と怒鳴ると、『オレはスーパーマンじゃないんだよ』とふてくされ、レフト方向への高いフライを打ち上げると、『オレはフリスビーの犬じゃないんだよ!』と文句を言っていました。今はテレビで売れっ子だけど、あの頃から独特のユーモアセンスがありましたよね(笑)」

 ノックが終わると、馬場平でクロスカントリーを行なう。アップダウンの激しい急勾配をひたすら走る。それを何周も繰り返す。選手たちの疲労はピークに達していた。

「この伊東キャンプは、かつて長嶋(茂雄)さんがジャイアンツ監督時代に行なっていたものです。関根さんは長嶋監督時代のヘッドコーチでしたから、その時の経験を採り入れたんでしょう。当時のヤクルトは若い選手が多かったから、多少の無理をしても大丈夫。彼らにはまず、プロとしての体力を身につけさせたかったんでしょうね」

【練習嫌いだったボブ・ホーナー】

 就任1年目となる87年、シーズン途中で加入したのがボブ・ホーナーだった。現役メジャーリーガーの加入は、池山、広沢のいい手本となる。安藤もまた、その実力に素直に脱帽していた。

「タイガース時代にはランディ・バースも目の当たりにしていたけど、ホーナーはモノが違いました。とにかく穴がなかった。どんなコースでもヒットに、ホームランにできました。来日1戦目のタイガース戦で仲田幸司からライトに、2戦目では池田(親興)からの3連発でレフト、左中間、バックスクリーンにホームランを打ったけど、まさにどの方向にもホームランが打てた。あんなバッターは見たことがないですよ」

 しかし、苦笑いを浮かべながら、「ホーナーは本当に練習嫌いだった」と振り返る。

「試合前の練習も、2〜3本走って終わり。バッティング練習も毎日するわけじゃなくて、しないときもありました。試合中も、3打席終わると勝手にスパイクも靴下も脱いで、バケツに入れた水の中に足を浸している。それを見ていた若松(勉)が、『安藤さん、また始まりました』と私に言ってくる。関根さんに伝えると、『しょうがないな、代えよう』となる(笑)」

 それでも、超一流選手の技術を目の当たりにすることで池山、広沢にも大いに刺激となった。スワローズ退団後に出版されたホーナーの自著『地球のウラ側にもうひとつの違う野球があった』(日之出出版)は、日本球界を痛烈に批判する暴露本として話題になったが、それでも池山については、「近い将来、日本を代表するようなバッターになるだろう」と予言し、広沢についても、「野球への情熱がすばらしい」と絶賛している。超一流の助っ人外国人がもたらす効果について安藤が解説する。

「関根さんが監督を務めた3年間は、87年のホーナーに始まり、88年の(ダグ・)デシンセイ、89年にホームラン王を獲得した(ラリー・)パリッシュと大物外国人を獲得しました。もちろん、関根さんひとりの意向で決まったわけではないけれど、彼らの存在がイケトラに大きな影響を与えたのは間違いありませんでした。関根さんにも、そうした狙いがあったのはたしかだと思います」

 若手選手に対する生きた教材として一流選手を獲得する。関根はさらに貪欲だった。タイガースを辞めたばかりのバース、そして掛布雅之の獲得も試みている。さらに、契約がこじれていた現役メジャーリーガーのノーラン・ライアンにまで触手を伸ばすのである。

「そうです、それはいずれも実際に交渉しました。関根さんから頼まれて、バースと掛布には私が電話しました。バースに関しては契約寸前まで進んでいたんですけど......」

 三十数年前の記憶をたどりながら、安藤は当時を振り返った──。

(文中敬称略)

後編につづく>>


安藤統男(あんどう・もとお)/1939年4月8日、茨城県生まれ。土浦一高から慶應義塾大を経て、62年に阪神に入団。内外野を守れるユーティリティープレーヤーとして活躍した。70年にはリーグ2位の打率.294をマークし、二塁手としてベストナインを獲得。同年のオールスターにも出場。73年の現役引退後は、阪神の守備走塁コーチ、ファーム監督などを歴任し、82年から一軍監督に就任。84年まで3年間指揮を執った。87年から3年間はヤクルトのヘッドコーチを務め、2002年から09年まで阪神のOB会長を務めた

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