連載・平成の名力士列伝23:玉春日
平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。
そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、押し相撲を追求し続け、横綱・大関からも白星を挙げ続けた玉春日を紹介する。
連載・平成の名力士列伝リスト
【伝統の乙亥相撲をきっかけに】
物静かで目立たないけれど、一途に磨き上げた確かな技術を活かしてしっかりと仕事をこなし、仲間たちから厚い信頼と評価を受ける――玉春日は、平成の土俵で、そんないぶし銀の存在感を放った力士のひとりだ。
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昭和47(1972)年生まれで愛媛県東宇和郡野村町(現西予市野村町)出身。毎年11月末の「乙亥(おとい)相撲」で知られる地だ。江戸時代末期、度重なる火災の鎮火を願って始まったものが、やがて豊作を祈るにぎやかな伝統行事となった。今では地元の人々だけでなく、全国各地の社会人相撲や学生相撲の強豪に加え、九州場所を終えたばかりの幕下以下の力士たちも集い、全国唯一のプロアマ対抗戦が行なわれることでも知られる。
玉春日は少年時代、そんな伝統の乙亥相撲出場をきっかけに相撲を始め、基本の押しをひたすら磨いた。相撲は中学まででやめるつもりで、県立野村高校に入学するとラグビー部に入ったが、下宿先としていたのが相撲部の稽古場であり、のちに四股名の由来にもなった「春日館相撲道場」で、相撲部の先生に誘われて、断りきれずに相撲部と掛け持ちし、やがて相撲一本に打ち込んだ。
高校卒業後は中央大学に進学。個人タイトルをふたつ獲得したが、のちの大関・武双山(専修大3年時にアマ横綱→3年で中退し武蔵川部屋)、関脇・土佐ノ海(同志社大で15タイトル→伊勢ノ海部屋)、幕下・北勝森(鶴賀。日大4年時に学生横綱→八角部屋)といった同学年のライバルたちの陰に隠れた存在だった。そんななか、自身が大きな輝きを放ったのは、仲間たちのために戦う団体戦。平成4(1992)年、大学3年時の全国学生相撲選手権・団体決勝の王者・日大戦、1−2の土壇場で迎えた副将戦で鶴賀に勝って逆転に導き、日大の連覇を阻んで中大34年ぶり優勝の立役者となった。
【現役力士からも評価されたイナシの押し技術】
元関脇・玉ノ富士の片男波部屋に入門し、平成6(1994)年1月場所、幕下付け出しで初土俵。1年前に中退して入門していた武双山や、玉春日より1場所遅れで入門の土佐ノ海がたちまち幕内上位に駆け上がって華々しく活躍したのに比べて歩みは遅かったが、一歩一歩、着実に番付を上った。
ブレイクしたのは新入幕の平成8(1996)年1月場所。大関・貴ノ浪と横綱・貴乃花の優勝争いに終盤まで食らいついて10勝し、敢闘賞を獲得した。5月場所は6枚目で9勝して技能賞。評価されたのは、少年時代から磨いてきた、基本に忠実な押しだ。この場所は9個の白星のうち8個の決まり手が「押し出し」。とりわけ12日目、優勝争いで首位に並ぶ大関若乃花を押し出した一番が光った。
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前頭筆頭で迎えた平成9(1997)年5月場所2日目には横綱・貴乃花を押し出して初金星を挙げ、殊勲賞に輝いて7月は新関脇に昇進した。
その後も幕内上位に定着し、曙、貴乃花、若乃花、武蔵丸からしばしば金星を挙げて確かな存在感を示した。ヒザのケガで十両に落ちた時期もあるが復活し、平成18(2006)年7月には、優勝した横綱・朝青龍に終盤まで2差で追って11勝し、10年ぶり2度目の技能賞に輝いている。
この頃の押しには、10年前とは一味違う、「イナシ」の技術があった。押しは相手と正対して真っすぐに押すのが基本だが、残されて押しきれない時、押す向きをちょっと右や左に変えることで相手のバランスを崩す。これが「イナシ」で、漢字では「去なし」または「往なし」と書く。当時、そんな「イナシ」がうまいのは誰か? と現役力士に聞いてみたところ、最も多く挙がったのが玉春日の名前だった。少年時代から一途に磨いてきた押しの技術が、円熟の境地に達したのだ。
地元に伝わる伝統行事で相撲に親しみ、高校ではやめるつもりだったが請われて続け、大学では個人戦よりも団体戦で結果を残した。その間、磨き続けた基本の押しが大相撲で開花し、晩年は円熟のイナシの技術で長く土俵を務めた玉春日。
引退後、片男波部屋を継いで育てた弟子がモンゴル出身の玉鷲だ。初土俵以来連続出場記録を更新し、40歳になっても幕内で活躍する土俵の鉄人には、真摯に、誠実に土俵を務め続けた玉春日の教えが息づいている。
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【Profile】玉春日良二(たまかすが・りょうじ)/昭和47(1972)年1月7日生まれ、愛媛県西予市出身/本名:秋山良二/所属:片男波部屋/初土俵:平成6(1994)年1月場所/引退場所:平成20(2008)年9月場所/最高位:関脇