日本ボクシング世界王者列伝:大橋秀行 『天才』の肩書きを凌駕する努力で残した拳の足跡と経営者としての手腕

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2025年05月14日 07:10  webスポルティーバ

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井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち06:大橋秀行

 もはや、大橋秀行には『会長』以外の敬称は見当たらない。井上尚弥という世界にとどろく巨星を筆頭に、スター、スター予備軍、さらにトップアマチュアを率いる大橋ジムのリーダーである。だが、オールドファンは誰ひとりとしてボクサー・大橋を忘れてはいない。

35年前、WBC世界ミニマム級王座を奪取し、ひどいスランプ状態に陥っていた日本ボクシング界の救世主となった。あるいは左フックのボディブローという必殺技を、日本に定着させた先駆者であったことも――。
<文中敬称略>

【左のボディフック――必殺パンチの先駆】

 ひとかどのトップボクサーが行なうシャドーボクシングを間近で見ると、拳が風を切る音が聞こえてくる。真正面に向かい合って、寸止めのパンチを打ち込んでもらうと、たとえ、10センチ前で止めたとしても、顔に風が打ち当たる。さらに、彼らの拳と言えば、とんでもなく、ごつくて硬い。

 そういう凶暴な武器が吹き荒れる最前線に隆(りゅう)としてそそり立ち、凍てつく一撃のカウンターパンチ。ファンの熱狂を誘うノックアウトを生み出す――大橋秀行とは、そういうボクサーだった。

 身長164センチ。リミット47.6キロの最軽量級では長身だったが、いたずらに足を使って距離をとることはしない。互いの最強パンチで存分に渡り合えるミドルレンジ、塹壕にて小太刀で立ち合うクロスレンジを"戦場"とした。

 たとえば、大橋のベストバウトとされる1990年2月7日、東京・後楽園ホールで行なわれたWBC世界ミニマム級タイトルマッチ(当時の名称はストロー級)。そのとき、日本のボクシング界は21試合連続で世界挑戦失敗、世界チャンピオン不在は15カ月にも及んでいた。折しもこの試合の4日後には、結果として空前の番狂わせとなったマイク・タイソン(米国)対ジェームス"バスター"・ダグラス(米国)の世界ヘビー級タイトル戦が迫っており、世間の関心はボクシングに集まっていた。挑戦者・大橋に対し、ファンからは祈りに近い期待感が集まった。

 しかし、この戦い、明るい材料ばかりではなかった。対戦するチャンピオンは崔漸煥(チェ・ジュンファン/韓国)。当時、韓国のボクシングは全盛期にあり、また、そのトップ選手の大半は、後退知らずの超攻撃型ぞろい。そんなコリアン・ファイターの猛威に、日本勢は次々に打ち取られていた。大橋自身も、コリアン・ファイターの親玉格、WBC世界ライトフライ級タイトル15度防衛の名王者、張正九(チャン・ジャンク)に2度挑み、いずれも張の八方破れの猛アタックにTKO負けの苦杯をなめていた。

 崔もまた、猛ファイターだ。決め手になる一発はないが、打っても打たれても、とにかく頑張り抜く。井岡弘樹(グリーンツダ)から王座を奪い去ったナパ・キャットワンチャイ(タイ)とのダウン応酬の激戦に打ち勝って奪い取った、このWBC王座こそ初防衛戦になるが、過去にIBFのライトフライ級タイトルマッチを5戦も経験している26歳のベテランでもあった。

 24歳の大橋は果たして崔の猛進に立ち向かえるのか――。予想どおり、次々に攻撃を仕掛けてくる崔に対し、どこまでも冷静にやり合った。角度に富む左フック、モーションレスで打ち込む右ストレート、大きなアッパーカットと好打を重ねる。タフな崔はそれでもひるむことはなかったが、次第に追い詰められていった。

 そして9ラウンド。大橋の切れ味鋭いパンチが次々に襲いかかる。勇敢な崔は右目を大きく腫れ上がらせながらも打ち返していたが、左のボディフックでついにしゃがみ込んだ。立ち上がってまっすぐに反撃に出たところに、待ってましたとばかりにまたもや左ボディ。崔はキャンバス上を2回転して、そのまま立ってこなかった。

 決着の直後、リングサイドの熱狂が聞こえる、ひと気のない通路を歩いていると、顔見知りと出会った。その野球が専門の新聞記者は、ボクシング取材は初めてだという。「すごいね。もう、虜になりそうだよ」と興奮気味に話していた。長年、ボクシングを追い続けていた私はすっかり得意になった気分だった。

 ちなみに、フィニッシュブローとなったのは、肝臓めがけて打ち込む左フック、もしくはアッパー。かつてメキシコ人が得意としたこのパンチは『メキシカンボディ』とも呼ばれていたもの。それ以前、日本ではボディ攻撃で倒れるのは鍛錬不足と言われる時代が長かったのだが、きちんと急所を捉えれば、戦慄のKO劇も生み出せると、大橋が証明してみせた。今では、日本選手の左ボディフックの技術は、世界のトップクラスと言って差し支えなくなっている。

【自分が150年にひとりなら、尚弥は1万年にひとり】


「試合の翌日はね、電車のホームに人が押し寄せてきて、乗りたくても乗れなかったんです」

 以前の取材で、世界王者を実感した瞬間として、そんな出来事を振り返っていた大橋だが、栄光の日までの道のりは険しかった。

 ボクシングに魅せられたのは中学生の時。その後にプロボクサーになった兄・克行(元バンタム級日本ランカー)の影響もあったのだろう。地元のプロジムに通った。高校はかつてボクシングの名門だった横浜高校に進む。

 すぐにハイセンスは開花する。2年時にはインターハイ優勝。さらに専修大学でオリンピックを目指したが、日本代表を勝ち取れず、アマチュアを断念。そのまま老舗ヨネクラジムからプロに転じた。19歳の時だった。

 キャッチフレーズは『150年にひとりの天才』。具志堅用高が『100年にひとり』だから、それ以上というわけだ。

「ウソだよ、ウソ。僕が150年にひとりのわけがない。だったら、尚弥は1万年にひとりになっちゃう」

 今でも真顔で否定する大橋には、それまでの自分の努力を「天才」のひと言で片づけられたくはないという思いもあったのかもしれない。

 高校時代、学校での練習の後、プロのジムで再び鍛えた。可能な限り、ほかの選手の試合を見て、専門誌や技術誌などを読みあさった。横浜高校のボクシング部監督だった海藤晃は「大橋くんは勉強家で読書家だった」と証言していたもの。ただし、並み外れて才能があったのも間違いない。カウンターパンチの最善のタイミングは、秒の単位をさらに切り刻んだ瞬間にしか存在しない。

 そして、腕相撲が強かった。最軽量級ミニマム級の痩せっぽちでも、そんじょそこらの相手に負けたことはないとも聞いた。天才という評価に甘んじて遊んだつもりはない。自分の才能の在処をきちんと見きわめ、何をすべきかを見きわめたから、世界の頂点にまで立てたと、そういう自負が『150年にひとり』全否定の所以にあったのだろう。

 しかし、プロ入り後は天才型だからこその育成方針がとられる。初めての世界挑戦はプロ22カ月、7戦目だった。対戦するチャンピオンは前出の張正九。しかも、場所は敵地・韓国。結果は5ラウンドTKO負け。あまりにも無謀ではなかったか。

「みんな、そう言いましたよね。でも、チャンスがあったら、やらなきゃいけない。でなけりゃ、プロである意味がない」

 早すぎたから負けたとか、手痛い黒星があったから成長できなかったとか、そういうものは結果論にすぎない、と。そのことを大橋は、自身で証しを立てた。張との再戦は7度ものダウンを喫して再びTKOで敗れたが、2度倒された3ラウンド、きれいな右パンチをヒットして韓国の名チャンピオンをダウン寸前に追い詰めた。その後も好打を浴びせ、敗れてもなお、まだ成長過程にあることを、ファンに知らしめた。そして、栄光の世界王座奪取へと道をつなげた。

【会長・経営者たらしめる愛用ゲームソフト】

 崔から奪ったタイトルは8カ月後に失った。22度王座を防衛し、52戦不敗(51勝38KO1分)のまま引退する超難敵、リカルド・ロペス(メキシコ)の挑戦を敢然と受けて立ち、5ラウンドTKOに散ったのだった。それでもあきらめることなく、WBAチャンピオン、崔煕墉(韓国/チェ・ヒヨン)を判定で破り、2団体で世界タイトルを奪ったのはその2年後のことだった。

 1993年の現役引退から1年。大橋ボクシングジムを設立する。それから10年後の2004年、所属選手の川嶋勝重がWBC世界スーパーフライ級王座を獲得。以後、現在まで井上尚弥を含む男女7人の世界チャンピオンを育てる。現場を任せるトレーナーもじっくりと育て、横浜高校、ヨネクラジムの後輩に当たる松本好二、さらに大橋ジムで初の3階級制覇世界王者となった八重樫東をはじめ、すでに日本を代表するトレーナーを複数名育てた。ジムとしてしっかりとした枠組みを築いたことが、世界的なボクシングジム、プロモーションとしての成功につながった。

「『信長の野望』というシミュレーションゲームがあるでしょ。あれで学んだんですよ。天下統一を果たすため、まずは兵糧を積んで国を富まし、家臣を育て、信頼を勝ち取っていく。あのゲーム、ずいぶん、やりこみましたから」

 学ぶための術は、あらゆるところにある。下地をきちんと作っておけば、多少の失敗も未来の糧になる。大橋は自身のボクシングキャリアと、ジム経営の秘訣をそう語る。

PROFILE
おおはし・ひでゆき/1965年3月8日生まれ、神奈川県横浜市出身。中学生時、戦前からの歴史を刻む地元の協栄河合ジムに入門。横浜高校2年生でインターハイ・モスキート級(45キロ級)優勝。専修大学を2年で中退し、ヨネクラジムからプロに転向した。デビュー7戦目の1986年12月14日、韓国でWBC世界ライトフライ級王座に挑み、張正九にTKO負け。再戦でもTKOに屈したが、1990年2月7日、崔漸煥(韓国)を劇的KOに破ってWBC世界ミニマム級王座獲得。2度目の防衛戦でリカルド・ロペス(メキシコ)に王座は明け渡したものの、1992年10月14日に崔熙墉(韓国)に3−0判定勝ちでWBA同級王座獲得。初防衛戦でチャナ・ポーパオイン(タイ)に敗れたのを最後に引退。右のボクサーファイタータイプ。カウンターの切れ味はすさまじいばかりだった。24戦19勝(12KO)5敗。現在は大橋ボクシングジム会長として、驚異のスーパーチャンピオン、井上尚弥らをガイダンスする。

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