謎の超大型兵器の登場、そして因縁のあるパイロット二人の対決と、いよいよ「ガンダムの大詰め」らしくなってきた『GQuuuuuuX』第10話。正直なところここまでコテコテに「ガンダムの大詰め」という感じになるとは思っていなかったのだが、なんだかちゃんと全12話で終わりそうである。
「地球環境を浄化するためのソーラレイ」との触れ込みだったイオマグヌッソ。その完成式典にはギレンとキシリアというザビ家の巨頭が揃う。マチュの乗るGQuuuuuuXも利用し、このタイミングでのザビ家一掃を狙うシャリア・ブル。しかしキシリアにも思惑があり、そして先に動いたのはキシリアの方だった……。総帥としてジオンを独裁したギレンだったが、クーデターを仕掛けたキシリアの前にあえなく毒殺される。そして、実際には「シャロンの薔薇とゼクノヴァを利用した大量破壊兵器」だったイオマグヌッソと、シュウジとキラキラを求めるニャアンを使い、キシリアはギレンの軍を大粛清する。
この第10話で興味深かったのが、木星でのシャリア・ブルの姿が描かれた点だった。かつてシャリアは「木星にヘリウムを回収に向かう」というジオン公国の命運がかかった任務に就き、その使命の崇高さと重い責任を背負った人物だった。しかし木星でのトラブルで搭乗していた輸送船が動かなくなり、地球圏への帰還が絶望的となったのである。
「自国に貴重な資源を大量に持ち帰る」という責任に燃えていたシャリアだったが、地球圏への帰還が不可能となるとそんな責任も背負う必要がなくなってしまい、軍人としてのシャリアはやることがなくなってしまう。「誰の期待にも応えられない、何の役にも立たない自分」を自覚した時、初めて自由になれたとシャリアはマチュに語る。
思えばマチュは、ストーリーが始まった時から「自由」に対して固執してきた。「宇宙(そら)って、自由ですか」のセリフに始まり、退屈な学校生活や息が詰まるようなコロニーの生活、規範意識で締め付けてくるような母親への反抗のように、クランバトルへとのめり込んでいった。しかしその実、マチュは「何がどうなったら自由なのか」という回答に辿り着いたわけではない。自由を求めて誰にも手の届かないはずの地球へたどり着いたものの、重力はコロニーのものと変わらないし、海で泳ぐこともできなかった。自由があるはずの地球で、マチュは何のカタルシスも得ることができなかったのである。
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一方でシャリアは、木星への旅の中で真の自由とは何かを知った。シャリアが見つけた「自由」は、国家が背負わせた任務と責任を果たすことができなくなった自分がいかに空っぽかという自覚とセットであり、地球圏に戻ることが不可能になりニュータイプの軍人として背負ってきた責務から解放されなければ感じられるものではなかった。もはや誰とも接触できず、なんの責任も負わされず、宇宙の果てで全てのしがらみから無関係になったところで感じられる自由は、ほとんど絶望と同義語であるように思う。だからシャリアは、絶対的な「本当の自由」を得たままで死のうとしたのかもしれない。
シャリアが言うには、シャアは自分と似ているのだという。確かに、若く自信家で野望を持ち、それを果たすことを自分の責任だと思ってすらいるシャアは、しかし自分のうちから湧いてくる内的な動機で動いているフシがない。ダイクン家の一人息子という立場ならばザビ家に復讐するのが当たり前だろうし、その「当たり前」の後に個人の気持ちや意識がついてくる。内的な動機ではなく「この立場ならこう振る舞うのが当たり前で、そしてこの立場にいる以上そう振る舞う責任すらある」と考えて行動していただろうシャアは、確かに「空っぽ」のシャリアに似ていたのかもしれない。もっとも、後年になれば立場に応じた行動を取らされる自分のことを「まるで道化」と自嘲するようにもなるのだけれど。そしてなにより、幼い頃から政争に巻き込まれ家族と引き裂かれて育ったシャアは、早い段階で人間に対して絶望してもいたのだろう。
地球圏から遠く離れたところで「本物の自由」に直面したシャリアだったが、その経験を経て見つけた自分の目的も第10話で明かされた。それは「ニュータイプがニュータイプとして生きていける世界を作りたい」というものであった。シャリアは自分自身がニュータイプであることを知っており、そしてその力を使って一年戦争を戦い、さらに自分と似たような存在が新たに生まれ続けていることも知っている。かつてキケロガに乗って戦ったシャリアだが、一年戦争が終わってもニュータイプには「戦争の道具」という立場があてがわれ続け、さらにはニュータイプを模した強化人間まで現れている。「兵器としてではなく、ニュータイプそのものとしてフラットに生きていける世界を作る」という目標は、自身もニュータイプであるシャリアが掲げるものとして自然だ。
しかしシャリアが抹殺を狙っていたキシリアは、ニュータイプに対して全く異なる考えを持っていることも、同じく第10話で明らかになった。劇中、キシリアはニャアンに対して「強さとは生き残ろうとする意志であり、淘汰されるのならばそれは強さではない」「ニュータイプに正しさはいらない。強さがあればそれでいい」という自分の考えを語る。ニュータイプが人類の進化した姿であるならば、まず生物的な淘汰にさらされるものである。ならばニュータイプは生き残る意思を持って強さを身につけ、淘汰を生き延びてこそ生存できるという、苛烈な考え方である。「兵器」としてのニュータイプの能力を伸ばして専用機を与えて部隊を編成し、圧倒的な戦力として活用するキシリアは、「ニュータイプは強くあらねばならない」という自分の考えを実践し、ニュータイプに強さを与えることで生存させようとしている。まず強くなければ、「新種の人類」であるニュータイプは生き残ることができない。そのためには兵器としてのニュータイプの能力を最大限に活かすべきであるとキシリアは考えているのだ。
この考えは、「ニュータイプはニュータイプとして生きるべき」というシャリアの考えとは完全に逆である。そしてマチュとニャアンはそれぞれ全く逆の考えを持つ保護者のもとでモビルスーツに乗り、戦場へ飛び出し、イオマグヌッソの中央部で対峙することになってしまった。
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惜しいのは、放送スケジュールがタイトすぎて「因縁の二人の対決!」という盛り上がりが薄く感じられる点である。マチュとニャアンとシュウジが一緒にクランバトルに参加しつつ人間関係を深めていく描写に時間を割けなかったため、「そもそもマチュとニャアンの間にそこまで友情があったのか」「なぜ二人がこれほどまでにシュウジに固執しているのか」という点に対して、視聴者がかなり行間を読んで想像を膨らませる必要が生まれてしまった。「超大型兵器のど真ん中で、宿命の二人が対決!」というシチュエーションなのに、「振り返ってみると、そこまで強烈な因縁が生まれる描写もなかったような……」という気がしてしまうのは、なかなか残念なポイントではないだろうか。せめて2クールあれば、もっとしっかり人間関係が描写できたのでは……と思わないでもない。
幸い、話数はまだ2話残っている。マチュとニャアンの直接対決を来週じっくりと描いても、その向こう側へとたどり着くための1話が残っているはずだ。来週はどのようなことになるのか、座して待ちたい。
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