「木内マジック」を知り尽くす元常総学院監督・佐々木力が郁文館の指揮官として挑む甲子園への道

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2025年06月19日 07:20  webスポルティーバ

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木内マジック×ノムラの教え〜郁文館高校の挑戦(前編)

 高校野球発祥の地と言えば、甲子園ではなく、第1回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)が行なわれた大阪の豊中グラウンドが有名だ。

 それでは、高校野球発祥のひとつとして数えられる学校が東京にあるのはご存じだろうか。1889年創立の郁文館(東東京)は、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』に登場する「落雲館中学校」のモデルとされている。野球部は開校まもなくして、当時国内最強の呼び声が高かった旧制一高(現・東京大)の練習相手として創部されたという記録が残る。

【間近で見てきた弱者の兵法】

 昨年1月。その由緒ある高校の監督に、常総学院(茨城)を春夏6度の甲子園に導いた佐々木力さんが就任した。取手二(茨城)で全国制覇を果たした選手時代、そして常総学院コーチ時代と、名将・木内幸男監督に師事し、指導者としての礎を築いてきた。

 今春からは社会人野球のシダックス時代に野村克也監督の指導を受けた座主隼人(ざす・はやと)さんをコーチとして招聘。荒川河川敷のグラウンドから虎視眈々と東東京制覇を目論む。

「木内野球は、弱いチームが強いチームに勝つにはどうしたらいいんだというところが原点だと思っています。郁文館は歴史的には長い野球部なのですが、まだ一度も甲子園には行っていないので、やりがいはありますね」

 木内さんのモットーでもあった「弱者の兵法」を間近に見てきた。思い出されるのは取手二時代の1984年夏の甲子園だ。初戦(2回戦)で優勝候補の一角に挙げられていた箕島(和歌山)の本格派右腕・嶋田章弘(元阪神ほか)を8回に攻略し、5対3で逆転勝利。

 勢いに乗ると、3回戦の福岡大大濠戦で8対1、準々決勝の鹿児島商工(現・樟南)戦で7対5、そして準決勝の鎮西(熊本)戦では、"杉浦忠2世"と呼ばれたサブマリン投法の松崎秀昭(元南海)を打ち崩して18対6と、さまざまなタイプの投手から大量点を奪ってきた。

「自分たちの代は1年生の時からレギュラーで6人ぐらい出ていたので、3年計画で甲子園に行って上位を目指そうというのがあったと思います。木内監督はチーム内で左右の横手投げや下手投げなど、全員違うタイプを揃えて打撃投手をやらせるんです。だから練習試合や大会でも、『この投手は石田文樹タイプ(元横浜、本格派右腕)』『この投手は柏葉勝己タイプ(変則左腕)』という具合に、◯◯タイプでいこうと言いながら攻略していきました」

 決勝の相手は夏連覇を狙うPL学園(大阪)。マウンドには、2年生エースの桑田真澄(元巨人ほか)が上がっていた。夏の大会前に水戸で行なわれた招待試合では、わずか1安打に抑えられ、0対13で大敗。清原和博(元西武ほか)との「KKコンビ」に、圧倒的な差を見せつけられた。

「招待試合ではボールの切れ、カーブの落差を見てあれは打てないなと思いました。それ以来、みんな少しバットを短く持って、コンパクトに打つとか、反省が少しずつあった試合でもありました」

【普通の公立校がPL学園に勝利】

 ただ、3連投だった桑田には、明らかに疲労の色が見えた。初回一死、2番打者だった佐々木さんは、初球の直球を強振。真芯に当たったライトライナーに、ベンチで「今日はバットに当たるな。大丈夫じゃねぇか」と感触を伝えた。その直後、連打に失策が絡み、幸先良く2点を先制した。

「これは勝てっかなぁ、というのがベンチのなかでありましたね。木内さんは自分たちの代で終わる(同年秋に常総学院監督に就任)というのはわかっていましたし『桑田、清原はお前らの一個下なんだかんな。このチームに勝てば孫の代まで言えっぺ!』という言葉に火をつけられたというのはありました」

 桑田は疲労に加え、中指の血豆が潰れていたこともあり、いつもの球威とはほど遠く、7回までに4対1とリードしていた。しかし、8回裏に2点を失うと、9回裏には石田が1番の清水哲に同点本塁打を被弾。流れは一気にPLに傾くかに思われた。しかし、延長戦に入り、足取り重くベンチへ帰るナインに、木内さんはこうアドバイスした。

「試合を早く終わらせようとすると焦りが出る。早く勝負を決めようとすんな」

 この言葉で平静を取り戻した。10回表、5番の中島彰一が試合を決める決勝3ランを放つなど4点を奪い、8対4で勝利。普通の公立校がスター軍団を打ち破る世紀の番狂わせで、茨城に初めて深紅の大優勝旗をもたらした。

「木内さんの采配はマジックではなく、ロジック(論理)だと思うんです。たとえば相手のシートノックを見て、3人もいるようなポジションは弱いところだからそこを狙わせたり、グラウンド状況を見てぬかるんでいるところがあったら、そこにセーフティーバントをやれとか、そういう見る目を子どもたちに浸透させて攻略していくんです。

 プロとは考え方も指導の仕方も違い、高校生はこうあるべきという基準をつくって、それを生徒に全部説明する。プロの内野手だったら肩が強いので何歩かステップを踏んで投げても間に合いますが、高校生はワンステップで放らないと間に合いません。無駄なことはしないということを、取手二高の時から徹底していました」

【目標は2029年までに甲子園出場】

 佐々木さんは日体大を卒業後、東洋大牛久(茨城)の監督を経て、1991年から常総学院のコーチ、部長として恩師を支えることになる。

 そして2003年夏の甲子園決勝、東北(宮城)の2年生エースであるダルビッシュ有(パドレス)と相対した。ここでも、木内采配が実を結ぶ。

 0対2で迎えた4回一死二、三塁。第1打席でまったくタイミングの合っていなかった4番の松林康徳(現・常総学院部長)はスクイズのサインを待ったが、木内監督は強攻の決断を下した。腹をくくった松林は、1ボール2ストライクからの4球目、勝負球の低に来た直球を叩きつけると、打球は高く弾み、三ゴロの間に三塁走者が生還。この回さらに2点を奪い、逆転に成功すると、最終的に4対2で夏初優勝。木内監督は自身3度目の日本一を花道に勇退(2007年秋から復帰)した。

「スクイズはなかなかスタートが切りづらいですし、外野まで打球を運べないとすると、夏の甲子園はグラウンドが硬いですから、ああいう策もありますよね。自分は木内さんから常総に引っ張られたので、最後まで監督とコーチで終わりたいというのがありました」

 木内さんは2011年夏を最後に第二次政権から身を引くと、後任監督には佐々木さんが就任。「練習のための練習はするな」という木内野球に、自身が培ってきたスパイスを加え、常総を春夏6度の甲子園へと導くと、2020年夏の独自大会後にOBの島田直也さん(元横浜など)に監督を譲り、昨年から郁文館の指揮を執ることになった。練習中にはマイクを使って選手に指示をしていた恩師と同じように、傍らには拡声器が置いてあった。

「ひとりに指導しているんですけど、それを全員に聞こえるよう、わからせるということでやっているんですね。そうすると自然に聞くようになるし、自分に置き換えるようにもなります」

 郁文館の渡邉美樹理事長兼校長(ワタミ創業者)からは、学校創立140周年となる2029年までに甲子園初出場を期待されている。今夏は昨夏の3回戦突破、そしてベスト8入りを目標に、発展途上の部員たちと汗を流す日々を送る。

「高校生は見ている人が清々しいと思ってもらえるようなプレーをするのが一番大事だと思っています。全力疾走だったり、相手を称えながらプレーするといったことを少しずつ教え込んでいけば、いいチームになっていくんじゃないかと思っています」

 今年5月に59歳を迎えたが、甲子園への情熱はいささかも衰えることはない。80歳までタクトを振った恩師のように、強者へと立ち向かっていく。

つづく

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