野村克也の薫陶を受けた男が郁文館のコーチとして再出発 「当たり前に挨拶や返事をすることが試合で生きる」

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2025年06月19日 07:31  webスポルティーバ

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木内マジック×ノムラの教え〜郁文館高校の挑戦(後編)

 高校野球発祥の学校のひとつとして数えられる郁文館高(東東京)に、今春から新たな「戦力」が加わった。座主隼人(ざす・はやと)コーチは、旧制一高(現・東京大)の練習相手として創部された記録が残る由緒ある高校の野球部を初の甲子園に導くべく、常総学院(茨城)を春夏6度の甲子園に導いた佐々木力監督に請われる形でやってきた。

【寮監も務める外部コーチ】

 社会人野球のシダックス時代に野村克也監督の指導を受けた熱血漢は、柔らかい関西弁で選手たちを鼓舞する。

「外部コーチは4人いますが、常勤は僕だけですね。一応は捕手出身なので、基本的にはバッテリーを中心に見ようとは心がけてはいますが、ノックを打ったり、バッティングも教えたりと、全体的に見ている感じです」

 普段は寮監を務め、選手たちと寝食を共にする。学校、寮、グラウンドまで送迎するため、バスのハンドルも握るなど、グラウンド内外でのオールマイティな活躍に、佐々木監督も「本当に真面目でビックリしました。仕事をキチッとやってくれるので、本当に助かっています」と感謝する。

 その球歴は華々しい。智辯学園(奈良)時代は4番捕手として1998年夏の甲子園に出場。立教大では三塁手へと本格転向した3年春の東京六大学リーグでベストナインを獲得し、2003年に野村克也さんが新監督に就任したシダックスに入社した。

 NPBで捕手として戦後初の三冠王に輝くなど通算657本塁打を放ち、監督としてヤクルトを3度の日本シリーズ制覇へと導くなど、数々の金字塔を打ち立てた「ノムさん」の印象は「普通のおじいちゃん」と笑うが、その観察眼に驚かされることは多かった。

「練習中に寝ているんですよ(笑)。みんなも最初『なんや、寝てんのかいな』という雰囲気だったんですけど、練習で手を抜く人とかをしっかり見ているんですよ。試合中も投球練習からずっと投手を見ていて、初球の入りや癖、配球に関してもすごかったですね」

 シダックスには当時、キューバ代表の主力野手として長く活躍していたオレステス・キンデランや、アントニオ・パチェコが在籍。野村監督も審判が理解できないスペイン語を覚え、チーム内の"共用語"として、球種やコースを伝え合っていたという。その指示はズバズバ的中した。将来的には捕手への再転向も打診されていた座主さんは、ボソボソとしゃべる指揮官の一言一句を聞き漏らすまいと、ベンチでは横に座り、配球を勉強していった。

【野村監督から贈られた新品グラブ】

 野村監督もそんな座主さんを目にかけていた。ある時、沙知代夫人と初対面で挨拶した際、「立教の座主か。旦那が期待しているぞ!」と声をかけられた。またある時は、田中善則コーチから「ノムさんがおまえのバッティングのテイクバック、タイミングの取り方を『あれはいいぞ』と絶賛しているよ」と聞いた時は、本当にうれしかった。

「シダックスに入って、すぐに野村監督から新品のグラブをいただきました。期待してくれているのかなとは感じていましたね」

 そんな寵愛を受けながら、持ち前の長打力に磨きをかけていき、プロも狙える大型野手へと成長。ただ3年目の2005年、日本選手権予選前に極度の腰痛に見舞われてしまう。

「立っていても寝ていてもしんどかったので、野村監督に『チームに迷惑はかけられないんで』と欠場を申し出たら、そんなに大したことじゃないと思ったらしく、『そんなこと言うてる場合ちゃうやろ』と。ただ、翌日に入院しました』

 病院で検査の結果、椎間板ヘルニア、腰椎分離・すべり症を併発していることが判明。野村監督から腰の名医を紹介され、都内の病院で手術を行なった。

「野村監督は『そんなに酷かったんか。頑張ってたんやな』と気遣ってくれました。このケガがずっと心に引っかかっていたみたいで、『傷持ちはプロじゃ厳しいと思う』と言われたことがすごく印象的でした」

 その後、復帰こそできたが、感覚のズレは最後まで修正できず、同年オフに現役を引退。シダックスも退社し、地元の大阪へと戻った。くしくも、翌2006年から楽天監督に就任した野村監督と、入部も退部も同じタイミングだった。

「野村監督にプロは厳しいと言われたら、もうしゃあないなと思ってあきらめがつきました。シダックスに入る時も、メディアの注目度が高かったので、そのチームからプロに行けなかったら、もう辞めようと思っていました」

【昌平高校で5年間コーチ】

 その後は大阪でサラリーマン生活を送っていたが、2019年、シダックス時代の先輩である黒坂洋介さん(現・福井工大ヘッドコーチ)が監督を務める昌平(埼玉)でコーチを務めることになり、再び上京。39歳にして、指導者の道を歩むことになった。

「コーチで難しいのは、自分の考えを落とし込みすぎると、監督の意思とちょっとズレるというのがあったので、あまり教え込むという状況は少ないんですよね。逆に教えて崩してしまったら、『何してんだ!』と言われてしまいます。こちらから強制して教えるということは、今のスタンスでもしていないですね」

 昌平は近年、埼玉県下で着実に力をつけている高校のひとつで、秋季県大会では2020年、2022年優勝と、浦和学院、花咲徳栄に見劣りしない好成績を残している。ただ、センバツを目前としながら、関東大会はいずれも初戦敗退。夏は2強の分厚い壁を突破することができず、これまで甲子園に出場したことはない。

「最後で勝ちきれないという甘さがあったと思います。僕が智辯時代に経験したのは、6月に追い込んで、そのなかで大会を迎えて調子を上げていくということ。もちろん厳しいことは今の時代なかなかできませんが、昌平ではそれはありませんでした」

「弱者の兵法」は、野村監督が最も得意とした戦術のひとつだ。ただ、5年もチームを指導しながら、甲子園へと導くことができなかった責任を感じ、2023年3月いっぱいで昌平を退職。埼玉県内の野球塾を手伝いながら、2024年には立教池袋中の軟式野球部でコーチを務めた。さまざまな指導経験を積み重ねていくうちに、野村監督の偉大さが身にしみてわかるようになってきた。

「野村監督はミーティングで終始『人間力』を言っていました。中学生や高校生に人間力と言ってもまだピンとはこないと思うんですけど、当たり前に挨拶や返事をすることが、試合中に瞬発的に声を出したり、内野、外野、ベンチの連係につながったりします。そうなれば、戦術が変わってきたり、勝ち方も変わってくるんじゃないかと思います」

 そして今春からは郁文館で再び高校球児の指導を行なう。佐々木力監督は、取手二(茨城)、常総学院で名将として鳴らした木内幸男さんの下、選手、コーチとして師事。ともに「弱者の兵法」を知り尽くした名監督を恩師に持つだけに、考え方は似通っている。

「郁文館に来て、最初の試合で大負けしたあとに、ミーティングで『うまい子はひとりもいないし、ええかっこをしようと思って試合をしているけど、逆にかっこ悪いよ』と伝えました。今は、これまであきらめがちだった打球を飛び込んで捕ったり、一塁まで全力疾走したり、そういう部分が変わってきているのがうれしいですよね。

 それは監督も実感されていて、ちょっとずつですけど、夏に向けてひとつになろうとはしていますね。まずは強豪を倒して勢いに乗って、最後は後輩たちに『俺たちはうまくはなかったけど、ここまでやったぞ』という姿を見せてほしいですね」

 座主さんはそう言って、部員たちに優しい眼差しを向けた。よき兄貴分は、その豊富な経験を余すことなく伝え、まずは目標の東東京ベスト8、そしてあわよくば、強者をなぎ倒して初の聖地へと導く。

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