小説『アイスリンクの導き』第17話 「ゾーン」

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2024年09月13日 18:21  webスポルティーバ

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『氷上のフェニックス』(小宮良之:著/KADOKAWA)の続編、連載第16

 岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ、そして膝のケガで追い込まれながら、悲しみもつらさも乗り越えてリンクに立った先にあるものとは――。

 今回の小説連載では、主人公である星野がすでに現役引退後の日々を送っている。膝のケガでリンクを去る決意をしたわけだが、実はくすぶる思いを抱えていた。幼馴染の凌太や橋本結菜と再会する中、心に湧きあがってきた思い...。

「氷の導きがあらんことを」

 再び動き出す、ひとりのフィギュアスケーターの軌跡を辿る。
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第17話 ゾーン

 全日本のショートプログラム、会場は三浦富美也のアクシデントがあって、ざわつきが収まらなかった。その後に滑った選手は、その混乱が伝線したように失敗を繰り返していた。不穏なムードが、まだリンクに残っていた。

 その中で氷の上に立った星野翔平は、凪いだ海のような心境だった。心の中が、少しも波立っていない。静けさが深いからこそ、奥底から熱が湧き出てくる。それは無限のように思えた。

 ほとんど意識せず、3本目のジャンプを降りていた。周りで動く風景が、妙にスローに感じられる。ゾーンの入り口にいるのだろう。

 ステップシークエンスで『ロクサーヌのタンゴ』で体を弾ませると、激情を濃厚に含んだ音が自分と一つに溶け合ったようだった。勝敗の呪縛から解き放たれたように錯覚した。同時に、無敵感に体が貫かれる。足換えシットスピンでは、右ひざがケガ前のように伸びた。足換えコンビネーションスピン、フライングスピンも回転がひたすら心地よかった。

 全身で何かを感じ取れる気がした。光を匂い、音に触れ、それを俯瞰する、五感のすべてが混ざり合う感覚があった。あと一息で、完全に向こう側に入るところにいた。

 しかし、その刹那だった。右膝に鋭い痛みが走り、現実に引き戻された。最後は何事もなかったようにフィニッシュポーズを決め、一斉に歓声が上がったのだが......。

〈ゾーンの奥までは入れそうだったのに〉

 翔平は歓声を受けながら悔やんだ。心地よさそうな世界の扉を開きけたところで、痛みで引きずり戻された。

 四方に向かって挨拶をし、熱気が渦を巻く中、恐る恐る足を運んでリンクサイドに戻った。痛みの理由を知るのが怖かったが、ブレードのカバーをつけ、歩くのに支障はない。前十字靭帯だけでなく、内側側副靱帯や半月板を痛めている可能性もある。強い炎症を起こしているのは間違いなかった。

 キスアンドクライ、鈴木四郎コーチと並んで座って点数の発表を待った。ファンからプレゼントされたキャラクターグッズを胸に抱えていたところ、カメラがアップになったのに気づいて、モニターの向こうのファンへ頭を下げた。"自分に向けられた熱が限界を超えさせてくれた"という率直な感謝の思いがあった。

「105.50点」

 その点数が出た瞬間、会場の歓声が沸騰した。限りなく満点に近い演技だったのだろう。すぐに観客に向かって、大きく手を振った。宇良を抜いてトップに立っていた。富美也の名前が上位にないことに、よからぬことが起きたのだと察知したが、自分の膝の状態が気になった。

 最終グループの選手たちの6分間練習がアナウンスされ、翔平はゆっくりと立ち上がって歩き出した。飛鳥井陸がぴょんぴょん跳び上がって、翔平に向かって手を振っていた。翔平もそれに右手を上げながら返すと、歩行が危なげなくできることに安堵する。膝の内部が炎症を起こすことはしばしばあって、それをカバーするため、外側の筋肉を苛め抜いて鍛えてきた。

〈靱帯や半月板はおそらく大丈夫。これならコントロールできる〉

 翔平は自分にそう言い聞かせ、中継しているテレビの取材エリアに移動し、フラッシュインタビューを受けた。

「ファンの人の応援が伝わってきて、それでほとんど無意識に滑っていた感じです。心地よかったですね」

 翔平ははっきりとした口調で答えた。膝の違和感については、もちろん口にしなかった。その後で記者たちが待っている取材エリアに移動し、新たに質問を受けた。

「30代で、なぜこんな若々しい演技ができ、限界を超えられるのでしょうか?」

 そんな質問をした記者がした。

「30代でできない、とは決まっていないですよね。誰かが、なんとなく決めた年齢のラインというか。一つの目安に過ぎないと思うんです。自分はスケートが好きで、いつも一つ前の演技よりも改善させ、よりよく滑りたいだけです。今回はみんなのおかげで、うまくその領域へ導かれたところがあるっていうか」

 翔平はそう答えた。

「スポーツ用語で言う『ゾーンに入る』ということだと思いますが、領域に導かれたっていうのは、具体的にどういう意味ですか?」

 もう一人の記者から突っ込まれた。重ねて訊かれると、翔平は明瞭に言葉にして答えるのが難しかった。答えられないのが領域なのかもしれない。なぜなら、自分が"入りたい"と思っても入れるものではないからだ。それはすべての条件が重なったときにのみ、言葉のどおりに導かれる世界で、数えるほどしか経験していない。それも、自分が入ったのは入り口だ。

「いや、どういう意味ですかね? まさにゾーンに入る、という感じなんですが。なんとなく、そんな気がするという表現で。周りがゆっくりと見えるんですよ。不思議ですけど」

 翔平は精一杯、答えた。

「最後にフリーに向けて、意気込みを。三浦富美也選手は棄権とのことで、優勝もかかっていますが」

 年配の女性記者が言った。

「えっ、富美也が棄権ってどういうことですか?」

 翔平の方が逆に質問した。何が起きたのか、まったく知らなかった

「三浦選手は演技の最後に大ケガをして、病院に搬送されたそうです」

「そうなんですか......」

 翔平はプログラムを演じることだけに、すべての集中力を使っていた。周りで起こったことも、まったく目に入ってこなかった。すべての情報を遮断するような状態に入れたからこそ、プログラムを演じ切ることができた。

「あの、フリーに向けての言葉を......」

 翔平はそう促されて、我に返った。

「フリーは、思い入れのあるプログラム『オペラ座の怪人』なので、その世界観を皆さんにたっぷりとお届けできるように頑張ります。今の自分のできる限りの演技を」

 定型の答えで、「ありがとうございました」と頭を下げる。

 そこで、「フリーも頑張ってください!」と顔見知りの女性記者に励まされた。ショートの演技の高揚感が、彼女にも伝わっている様子だった。一度目に現役だった時も、自分の取材に継続的に来てくれていた人だろう。スケートの世界は狭いだけにつながりが強く、そこに思いがこもっているのだ。

 翔平は、氷の世界の住人である。今日は、フィギュアの神様の慈悲で限界を超えた演技ができた。その縛りで、膝も悲鳴を上げているのかもしれない。そう考えると、得たものと失ったものの納得がいった。

 次のフリーは、本当に4分間を滑り終えることができるか。それは自分との格闘になるだろう。今のところ、歩けることに感謝した。

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