レイチェル・ゼグラーのinstagramより 2025年3月20日より実写版『白雪姫』が劇場公開され、「偉大な作品の名前をけがしていて不愉快」「あらゆる実写化で最底辺の出来」といった、容赦のない酷評が届けられている。
◆決して酷評一辺倒ではないが……
一方で、「予想していたほどひどくはない」「批判されているけど私は好き」「観る前は不安だったけど普通に楽しめた」など、テンションは低めながら擁護する意見も多い。
実際に映画.comでは3.3点、Filmarksでは3.5点など、レビューサイトの平均点はそれほど低くはない。米批評サービスRotten Tomatoesでの批評家支持率は46%で、やはり酷評一辺倒ではなく、賛否両論なのが現状だろう(スコアはいずれも記事執筆時点)。
個人的には良いところをちゃんと見つけられる作品だと思えたが、それでも公開前から議論されていた作品の「外」にあるネガティブな話題と、本編の問題点にも触れざるを得ない。それぞれをまとめていこう。
◆主演俳優の発言が炎上してしまった
まず、本作が批判されたのは白雪姫のキャスティングだ。主演のレイチェル・ゼグラーはコロンビアとポーランドの血を引くラテン系の俳優であり、1937年のアニメ版とはイメージが異なるとして多くの批判の声があがった。しかも、アニメでは白雪姫の名前の由来が「雪のような白い肌」だったのが、実写では「激しく雪の降る日に生まれた(雪のように純粋な心を持っている)から」と設定が変更されたこともファンの怒りを買った。
さらに、レイチェル・ゼグラー自身の発言が炎上した。彼女はアニメについて「女性の社会的地位や役割に対する考え方がありえないほど古臭い」「王子は白雪姫をストーキングしている」と侮辱とも取れる発言をした。
さらに「トランプ支持者、トランプ有権者、そしてトランプ自身が平和を知ることがないように」といったSNSでの投稿が猛批判を浴び、その謝罪の言葉も述べられた。
◆政治的スタンスが正反対の二人が出演
他にも、小人症の俳優のピーター・ディンクレイジは「洞窟で共同生活をする7人のドワーフたちの話は時代に逆行している」と述べ、アニメのデヴィッド・ハンド監督の息子デヴィッド・ヘイル・ハンドは「実写はアニメとまったく異なるコンセプトで賛成できない」などと批判した。
さらには、パレスチナ解放とガザ停戦を求めるレイチェル・ゼグラーと、シオニスト(ユダヤ民族が祖先の地パレスチナに国家を建設しようという運動である「シオニズム」を支持する人)であるガル・ガドットという正反対の立場の俳優が出演していることもあって、その両サイドの支持者から攻撃されている。
レイチェル・ゼグラーは2021年の『ウエスト・サイド・ストーリー』のときにも共演者のスキャンダルに見舞われたこともあり、ここまでのバッシングはさすがにかわいそうにも思うのだが、やはり主演俳優という立場からの、アニメおよびそのファン、さらには個々人の政治的なスタンスを侮辱するような発言への批判は当然だ。キャラクターと異なる設定やイメージの人種の俳優をキャスティングすることの是非も、引き続き議論は必要だろう。
こうした結果を受けてか、ハリウッドでのレッドカーペットは規模を縮小してメディアも制限された。ディズニーの実写映画が物議を醸すことは今までにもあったが、その中でももっとも炎上してしまった。それらのネガティブな印象は、本編の評価にも少なからず影響してしまっているだろう。
※以下からは、実写版『白雪姫』本編の一部内容に触れています。
◆白雪姫の役割の芯は外していない
映画の外にネガティブな話題があることを前提として、本編とはなるべく分けて論じたいという気持ちもある。その上で、「原作のアニメを観ているけどさほど思い入れがない身としては」という枕詞はつくものの、素直に楽しめたというのが本音だ。
特に「アニメで描かれた世界と物語が実写ではこうなるのか」という、表現方法の違いによる魅力は大きい。暗い森を抜けた先での明るくカラフルで美しい画や、愛らしい動物たち、(少し「不気味の谷」に足を踏み入れているものの)7人のこびとたちの振る舞いも楽しい。
よく知られた「ハイ・ホー」のミュージカルシーンだけでも観る価値はあるし、森での楽しい光景と無機質な王女の衣装や部屋との対比や、その王女による新しいナンバーも印象に残る。CGが浮いている、作り物感があるという厳しい意見もあるものの、それでもビジュアルと音楽面での面白さは確実にある。新しい「おとぼけ」のエピソードも良かった。
白雪姫の性格と行動が変わっていることに賛否はあるが、個人的には白雪姫という存在が担う「役割」については「芯を外さず」に上手いアレンジがされていると思えた。
その役割とは「人々の間を取り持ち結束させる」ことである。アニメでの白雪姫がその純粋無垢さにより愛され、人々の関係が良き関係へと向かったように、実写での白雪姫もまた能動的な行動により人々の意識を変えていった。物語の方向性は大きくはズレていない。こういった資質を感じさせる新しい白雪姫に、レイチェル・ゼグラーはとてもマッチしていた。
クライマックスには後述する問題もあるし、少し説教くさい気もしなくはないが、メッセージは分断と断絶が大きな問題となる今の世界において、とても重要なものだった。7人のこびとたちと、新たな「山賊たち」という集団の立場が被っているという意見も見かけたが、こちらも違う集団の間を取り持つ白雪姫の役割を思えば、なかなか理にかなった設定だと思えたのだ。
◆アニメと違うことが、嫌われる原因にもなっている
その他でも、個人的には「アニメと違うところ」も楽しめたのだが、アニメのファンにとっては、やはりそちらを否定しているとも捉えられかねない、嫌われる理由になってしまっているのも現状だろう。その筆頭は「白雪姫の運命の人」とされる「ジョナサン」のキャラクターで、劇中で彼のことを「白馬の王子様ではない」とも言っている。それに伴って、アニメの冒頭で印象的だった「いつか王子様が」が歌われることもなくなっている。
あるいは、白雪姫の性格が能動的または好戦的になっていることはともかく、劇中でその性格と展開の整合性が取れていないことが気になった。たとえば、『白雪姫』の物語で特に印象的な「毒リンゴを食べる」という展開において、その心理に至るまでの理由は少しだけ語られてはいるものの、それでも「この性格の白雪姫があそこまで怪しい老婆のリンゴを食べるだろうか?」と思ってしまった。
クライマックスの展開とメッセージ自体は良かったのだが、それに至る過程の説得力と、その場所にいるキャラクターとの関係性の積み重ねがはっきりと欠けている。急にスケールが小さく思えてしまうし、盛り上がりのなさを感じる人がいるのも致し方がないし、そもそもアニメとはまったく違う展開を嫌う人もいるだろう。
他にも大小さまざまなツッコミどころがあるし、せっかくの実写リメイクで説得力を持たせられたはずの「なぜそうなるのか」のロジックを放棄しているような場面も気になった。そして、どうしても個人的に許容できなかったのは、肝心のラストシーンだった。
ネタバレになるので詳細は控えるが、昨今のディズニー作品で掲げていた「多様性」の「真逆」を行くような、もはやディストピアのようにさえ思える、あの光景はいかがなものだろうか。最後の最後で、決して少なくない人に居心地の悪さを感じさせてしまうのは、もったいなさすぎた。
◆アップデートとうまく噛み合っていないかもしれない
振り返って思えたのは、今回の『白雪姫』は「原作をなぞった展開」と「今の時代ならではのアップデート」がうまく噛み合っておらず、その一部がアニメへの否定にも捉えられかねない上に、全体的な物語の整合性を損ねてしまっている、ということだ。
過去の実写版『シンデレラ』や『アラジン』は、「原作を大いにリスペクトし新たな解釈を加える」方向性であったと思うし、好評を得ていたのだから、もっとブラッシュアップが必要だったのではないか。
個人的には実写版『白雪姫』はトータルでは決して嫌いにはなれないのだが、やはり「なんだかなあ」と思う部分は多々あるし、アニメのファンから激烈な酷評が届く理由もまた納得できてしまう。
とはいえ、『白雪姫』に思い入れがない、知らないという人にとっては面白く観られる可能性は大いにあるし、何より楽しい場面が多いので素直にお子さんにもおすすめできる。
一緒に観た人と、文句やツッコミも含めて語り合うことも込みで、ぜひ楽しんでみてはいかがだろうか。
<文/ヒナタカ>
【ヒナタカ】
WEB媒体「All About ニュース」「ねとらぼ」「CINEMAS+」、紙媒体『月刊総務』などで記事を執筆中の映画ライター。Xアカウント:@HinatakaJeF