【今週はこれを読め! エンタメ編】さまざまにこじれていく愛の形〜井上荒野『猛獣ども』

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2024年08月21日 12:11  BOOK STAND

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 井上荒野氏の小説は癖になる。表面には出さない人間の本音が、露わになっていくところから目が離せなくなるのだ。誰だって、人目に晒したくないことはある。他人のそれを見てみたいという欲望と、見せられる恐怖は、いつも心の中に共存しているのではないだろうか。貼り付けられた装飾、被せられた覆い、こびり着いた汚れ......。それらが丁寧かつ容赦なく剥がし取られていくさまを、息を殺しながら見つめているような緊張感がこの小説にはある。

 舞台は閑静な別荘地だ。敷地内で遺体が発見されるという衝撃的な事件が起こる。見つけてしまったのは別荘地に定住している散歩中の夫婦だ。尋常ではない悲鳴に気がついた住民からの電話を受けて現場に行き、凄惨な現場を見た管理人・小松原慎一は、それが熊による被害であることに思い至り、警察に通報をする。

 小松原は、住み込みの管理人募集という求人に応募してこの別荘地にやってきた28歳の男だ。事件の起こった日に新しい管理人である小林七帆がやってくるのだが、自分が東京を離れるきっかけとなった女によく似ていることに戸惑う。25歳で東京本社から別荘地に唐突な異動を言い渡された七帆も、もちろんわけありである。まずまず定住住民たちに頼られている小松原と、冷静で仕事が早い七帆は、互いの事情に首を突っ込みあうことはしないままに事件への対応を進めていくが......。

 被害者は別荘地の住民ではなく、下の町に住んでいる若い男女であったらしい。住民たちはどこから聞いたのかそのことを知っており、誰のしわざなのか、管理事務所のポストには「ふたりは姦通していた」と書かれたコピー用紙が投函されている。被害者二人が不倫関係であったことも、いつの間にか噂になっている。

 別荘に定住する住民たちと、ふたりの管理人の状況が、それぞれの視点で描かれていく。扇田夫妻は、別荘に引っ越してきたばかりでどちらもクレーマー気質だ。妻の妊娠がわかったばかりである。人気作家の東雲萌子は、夫も作家である。夫の方は売れていないため、住民の誰もが名前を覚えていない。野々山夫妻は登山が趣味で、山荘を引き継ぎペンションにして経営している。併設されているカフェコーナーには住民たちも集ってくる。遺体を発見してしまった神戸夫妻は、夫の定年退職を機に定住をはじめた。毎朝一緒に散歩をする仲の良い夫婦だ。いつも洒落た出で立ちの柊夫妻はふたりで鍼灸院を経営していて、高齢の小副川夫婦は夫ががんになり余命はもう長くない。

 表向きはそれなりに円満に見える夫婦たちだが、内情はそれぞれだ。気がつくと愛と思っていたものはすれ違っていて、思いは空回りし、罪悪感や虚しさに囚われ、憎しみが深まっていく。全員が他人には決して見せない顔を持ち、配偶者には言えない感情を互いに抱えあっている。過去の恋愛で受けた痛みから、まだ逃れられないふたりの管理人の関係も変化していく。

 人はなぜ、愛するということに翻弄されるのか。愛し続けることも、愛が終わることも苦しいのか。さまざまな方向にこじれていく愛の形を、ぜひ見届けていただきたい。

(高頭佐和子)


『猛獣ども』
著者:井上荒野
出版社:春陽堂書店
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