【今週はこれを読め! エンタメ編】藤野千夜『時穴みみか』に涙が止まらない!

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2024年08月27日 12:01  BOOK STAND

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 2015年に単行本が刊行され、今年の3月にようやく文庫化された小説である。新刊を紹介するこのコーナーの基準には当てはまっていない本なのだが、無理を言って書かせていただくことにした。藤野千夜氏の作品ならほとんど読んでいるはずなのに、どういうわけかこの本は手にしていなかったのだが、名作すぎて震えがきた。ファンと言いつつ読み逃していた自分は、大馬鹿野郎である。帯には町田康氏が「慟哭」、角田光代氏が「嗚咽」したとあるが、私も涙がとまらない。『じい散歩』(双葉文庫)や『団地のふたり』(双葉文庫)で藤野氏を知った読者の方には、少女が主人公のこちらもぜひ読んでいただきたい。そして、宝塚が好きな人には「絶対読んで!」と言っておく。『ベルサイユのばら』初演から50年目の記念イヤーである今年に文庫化し、改めて店頭に並ぶのは、むしろグッドタイミングと言えるのかも。

 主人公の大森美々加は、小学六年生の女の子だ、両親は5年前に離婚して、大好きなママと二人で暮らしている。甘ったれで、幼いところはあるけれど、結構頑固なところもある女子である。保健室の先生の影響で宝塚ファンになり、動画を見せてもらうのを楽しみにしているのだが、覚えた歌をひとりで口ずさみながら帰ったりするところが、なんともほほえましい。美々加には悩みがある。ママの恋人・熊田さんのことだ。悪い人ではないのはわかっているけれど、複雑な気持ちなのである。ある日、美々加は学校帰りに猫を追いかけて、奇妙な穴に入り込んでしまう。気がつくと知らないお家で寝ていて、そこにいる人々はなぜか美々加のことを「さら」と呼ぶ。いったい何が起こったのか。

 美々加がやってきたのは昭和49年で、どういうわけか、小岩井さらという名前の小学4年生になってしまったようだ。工務店を経営するパパさん、やさしいママさん、高校生のお姉ちゃん・祐子と、やんちゃな弟のまさおの五人家族らしい。自分はさらではなく、平成生まれで名前は美々加だ、家に帰りたい、と言っても、誰も本気にしてくれない。

 小説の中には懐かしい光景が広がっている。ゴムできた水枕、ダイヤル式の黒電話、ブラウン管のテレビ、いやらしい雑誌の自動販売機、まさおがはいているやたら短い半ズボン、マンダムポーズに恐怖の大王にこっくりさん......。細かいところまでしっかり昭和で、「あったあった!」と思わず声に出して言いたくなる。私は楽しいが、主人公は大変だ。ぼっとん便所に怯え、家に帰りたくて、最初はパニックに陥ってしまうが、徐々に昭和に馴染んでいく。幸いなことに、小岩井家は温かい一家なのだ。妙なことを言い始めた娘を、心配はするしちょっと怒ってしまったりもするのだが、美々加が「自分はさらじゃない」と言えない雰囲気には決してしない。パパさんが愛情から美々加が嫌がることをしてしまったりしても、ママさんとお姉ちゃんが守ってくれるし、パパさんもちゃんと反省する。昭和にはない「からあげ棒」が食べたいと美々加が言えば、ママさんは「お行儀悪いわねえ」と言いつつもわりばしにからあげをさしてくれて、まさおもパパさんも喜んで食べたりする柔軟性のある一家だ。美々加は学校でも孤独ではない。仲の良い四人の友達は、「さらを美々加に戻す会」略して「さらみみ会」を結成し、一緒に遊んだり、未来の話もノリノリで聞いてくれるから、美々加もたくさん話をしたくなる。

 そして、大好きなお姉ちゃんがいる。さらと呼ばず、美々加と呼んでくれるし、一緒にいるといつでも安心できるのだ。嬉しいのは、お姉ちゃんも宝塚ファンであることだ。朝は美々加の髪を整えつつ宝塚の歌を歌ってくれたり、裁縫の得意なママさんに衣装やシャンシャンを作ってもらって一緒にタカラヅカごっこをしてくれたり......、めっちゃ楽しそうではないか! 宝塚ファンなら笑顔になってしまう描写だらけだ。生まれた時代を超えて、好きなものを分かち合う二人が、愛しすぎる。時は昭和49年、宝塚大劇場で上演された『ベルサイユのばら』が評判を呼んでいる。東京宝塚劇場で始まる公演を、美々加もお姉ちゃんも観たくてたまらないのだが......。(私だって観たいよっ!)

 自分は未来からきたと主張し続けるなんて、変な子だと言われて仲間はずれにされたり、発言をキツく禁じられたりされても驚かない。美々加であることを封印しさらとして生きるのも一つの手段だと思うけれど、頑固な主人公は決してそうしない。小岩井家にもさらみみ会にも、そんな美々加の居場所がちゃんとある。ありのままの自分を認めてくれる人がいる場所を、人は大切に思うのではないだろうか。二度と帰れなくても、そういう幸福な場所があったことに、生涯励まされ続けるのではないか。予想とは違ったラストに涙が止まらなくなったのは、私も自分の大切な場所のことを思い出したからなのだと思う。

 さて、美々加は、「ベルばら」を観劇できたのか? ママのいる平成に帰れるのか? それはぜひ、ご自身でお確かめいただきたい。8月31日から東京宝塚劇場で「ベルサイユのばら フェルゼン編」が上演される。美々加とお姉ちゃんは、劇場に足を運ぶだろうか。幸せな想像をしながら、何度もページをめくってしまう。

(高頭佐和子)


『時穴みみか (双葉文庫 ふ 22-04)』
著者:藤野 千夜
出版社:双葉社
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