【対談連載】セーブ・ザ・チルドレン 専務理事・事務局長 高井明子

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2025年06月13日 08:01  BCN+R

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2025.5.2/東京都千代田区のセーブ・ザ・チルドレンにて
【東京・内神田発】高井さんのプロフィールを拝見すると、世界中を飛び回って未知の仕事にも果敢にチャレンジされてきたことがうかがえる。その中で、うまく仕事を回したり、チームワークを築いたりするために、どんなことを心掛けているかを聞くと、心掛けではないが、もともと新しく人と会うのが好き、新しい場所に行くのが好き、そして相手の人について興味を持つタイプだと答えてくれた。そうやってみんなのことを知り、どうしたら仕事をうまく楽しくできるかを考えるという。お名前通りの明るさとその裏にある繊細さが伝わってきた。
(本紙主幹・奥田芳恵)

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●英語の勉強はラジオの「基礎英語」から

 高井さんは、まさに「元気印!」という感じでいらっしゃいますが、小さい頃からリーダーシップを発揮するタイプだったのですか。

 同僚たちと楽しく元気に仕事をするというのは昔から変わりませんが、子どもの頃から、一人で朝礼台の上から話すというのは好きではなかったですね。先生から児童会長をやるようにと言われたことがありましたが、自分から立候補するタイプではありませんでした。できれば、二番手くらいがよかったですね。

 それはちょっと意外というか、なぜ二番手のほうがよかったのでしょうか。

 人前で話さなくていいことと、リーダーに必要な準備をサポートする、感じですかね。例えば「こういうことを話してください」とか「こんな進め方をしたほうがいいのでは」などと提案して、裏方的な調整をすることのほうが好きなんです。

 でも、高井さんのお話はとても面白いですよ。お会いしたばかりなのに、もう引き込まれそうです。

 私も自分の話が面白くないとは思わないのですが(笑)、高いところに立って「みなさん〜」というのは好きじゃないんですね。

 もちろん、何か困ったことが起きて、その問題を整理するためにメガホンで「みなさん〜」と呼び掛けることは得意ですが、それはトップの役割ではないことが多いですよね。いわば羊の群れの前後にいる羊飼いのうち、後ろのほうにいる人みたいな役どころでしょうか。

 羊たちが誤った方向に行かないよう、後ろからしっかりフォローするわけですね。ところで、やはりお勉強はできるタイプだったのでしょうね。

 そうですね。勉強することは嫌ではありませんでしたから、少なくとも中学生までの成績は悪くはなかったと思います。

 その後、高井さんは世界を舞台に活躍されるわけですが、英語はどのように身に付けられたのでしょうか。

 6歳のとき、父の仕事の関係で、1年ほど、家族でカナダのモントリオールに住んだ経験があるのですが、そのとき、私は初めて日本語を話さない人たちと接して「早く日本に帰りたい」と言っていたと聞かされました。

 それは一種のカルチャーショックですよね。

 でも小学校3年生のとき、英語を習いたいと思うようになりました。それで、大学の教員をしていた父に相談すると、ラジオの「基礎英語」をやればいいと言われました。それを1年間続けられたら、英語の塾に通っていいと。無事、1年間続いたので、4年生からは個人で教えている近所の先生について習うようになりました。それ以来、英語の勉強はずっと続けており、得意科目になりましたし、仕事に生かすことができましたね。

●「これはおかしい」という理不尽には迷わず声を上げる

 小中学生のときはいわゆる優等生で、勉強も嫌々やるのではなく好きだったと。

 でも、中学3年生のときに「2」をとったことがあるんですよ。

 5段階評価の「2」ということですか。何かあったんですね。

 私はリーダーシップを発揮するタイプではなかったとお話しましたが、「これはおかしい」と思ったことには声を上げるタイプでした。当時の公立中学校は、まだ管理教育真っ盛りで、教師が生徒を脅すようにして従わせる場面が多くみられました。反抗期ということもあり、私は世の中のそうした理不尽に我慢できず、教師に文句をつけてしまったのです。

 どうなりました?

 「生意気だ!高井は調理実習に参加させない」と私だけ家庭科室から締め出されて、廊下に立たされたのです。

 それはひどい。

 落し蓋をしてカレイの煮つけをつくる実習でしたが、実習に欠席したことを理由に「2」をつけられ、そのせいで落し蓋の使い方がいまだにわからない(笑)。母が学校に呼び出されたり、謝罪させられたりと、ちょっとした騒ぎになってしまいました。

 笑い話のようですが、当事者としては笑えない話ですね。

 これは中3の2学期の出来事で、内申書の成績にも影響するため、けっこう問題でしたね。母からは「無言の抵抗」というものもあると諭されたりしました。そんなこともあり、高校はリベラルな雰囲気の学校を選びました。

 その後、高井さんは米国の大学を選ばれたわけですが、その決断の理由は?

 日本の大学生の話を聞いても、サークルとアルバイトの話ばかりで、それだけでいいのかと疑問を抱いたことですね。それに対して米国の大学生は、遊びながらも勉強をして、社会に対する意見を述べたり、授業でもディスカッションしたりすることが多いと聞いたので、国内の大学で1年間学んだ後、アイオワ州のグリネル大学に編入学しました。

 実際に米国の大学で学んでみて、いかがでしたか。

 自分と同じように、変わっている人がけっこう多いなと思いました。

 ご自身が変わっているという意識はあったのですか。

 そうですね。それまではあまり仲間が多いとは思わなかったですね。それは、私の家が一般的なサラリーマン家庭ではなかったことに起因しているのかもしれません。

 お父さまが大学の先生だったそうで。

 父は理系の大学教員で、当時は公務員でしたが、家庭の中でははっきりと政治的な意見を口にしていました。母も理系出身で、小・中学生向けの理科の実験を行う仕事をしていました。その後は、家庭裁判所の調停委員も務めています。そして、同居していた祖父は建築士をしていましたが新しいもの好きのコンピューターオタクで、それぞれ個性的な家族だったと思います。

 そうした家庭環境や親御さんたちの考えが、高井さんの職業人生に大きな影響をもたらしたのでしょうね。後半では、現在のお仕事に至るまでのお話をじっくりとうかがいます。(つづく)

●日本地図が描かれたズボン

取材当日、高井さんがお召しになっていたズボン。日本地図がデザインされ、とてもカラフルでかわいい。世界地図がデザインされたものはけっこうあるが、日本地図は意外と少ないとのこと。このズボンの絵柄をきっかけに、初対面の人とも話が盛り上がることもあるそうだ。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

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※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

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