2026.3.25/神奈川県川崎市のカリタス女子中学高等学校にて【川崎・登戸発】川崎市北部の多摩川に程近いロケーションに位置するカリタス学園。広い敷地と開放的で美しい校舎が印象的だ。中学高等学校校長の萩原千加子さんは、自ら校舎を案内してくださり、学園の歴史やご自身の足跡について説明するスライドまで用意してくれた。カトリック系の女子校ということで、難しいキリスト教の話になるのかと思ったが、終始柔らかな笑顔でやさしくご自身の半生を振り返ってくださった。でも、校長先生が素行不良だったなんて!
(本紙主幹・奥田芳恵)
その他の画像はこちら●校長先生も小さい頃は叱られてばかりだった!?
今日は萩原さんが校長を務めるカリタス女子中学高等学校にお邪魔していますが、とてもすばらしい教育環境ですね。ご自身もこちらのご出身とうかがいました。
はい、私は小中高とこのカリタス学園で過ごし、大学卒業後、縁あってこちらで教員を務めることになり、現在に至っています。
ご経歴を拝見すると、さぞかし模範生だったのだろうと感じます。小さい頃はどんなお子さんだったのですか。
期待を裏切るようで申し訳ないのですが、小学生の頃は授業中、おしゃべりばかりしていて、先生によく叱られていましたし、遅刻は多いし、忘れ物の回数もクラスでトップでした。
それはとても意外です。
中学生のとき、担任の先生はとても厳しいシスターだったのですが、あるとき呼び出されてこう言われました。「授業中、あなたのことを廊下からじっと見ていたけれど、あなたは1時間おしゃべりしっぱなしだった」と。
1時間おしゃべりし続ける生徒も、それを1時間観察している先生もすごいです(笑)。
そんなこともあり、母が保護者面談でシスターと相談した結果、「こういう子は修道院の寮に入れたらどうだろう」ということになり、私は中学2年の11月から高校1年の終わりまで、寮生活をしたのです。
まだ家族と一緒に暮らしたい時期だと思いますが、家が恋しくなったりしませんでしたか。
それが全く恋しくなかったんです。両親が仕事で忙しく放任主義で育てられましたし、みんなと過ごす寮生活がとても楽しかったのですね。
寮生活は、萩原さんにどんな影響を与えましたか。
いいかげんなところはそれほど変わりませんでしたが(笑)、せっかく寮に入ってシスターと暮らすのだからと、洗礼を受けるための勉強をしました。毎週、教会に通うようになったため、生活は変わりましたね。洗礼を受けたのは、高校1年のときでした。
そもそも、カトリックの学校であるカリタスを選ばれたのは、何が決め手になったのでしょうか。
一番大きいのは、父の影響です。私が生まれた頃、ある日、父が会社から帰ってきたとき、「登戸に神様の学校ができるそうだ。うちの娘を入れよう!」と母に言ったそうです。父はもう亡くなっているため詳しいことは分からないのですが、そうした経緯で私はカリタス小学校に入学しました。
●創立時の3人のシスターから直接教えを受ける
「神様の学校ができる」ということは、萩原さんが小さな頃に、この学園ができたということなのですね。
そうですね。カリタス学園は、1953年にカナダのケベック・カリタス修道女会から3人のシスターが日本に派遣されたことに始まり、60年に設立されました。原爆を落とされて荒廃した日本に手を差し伸べたい、未来を担う子どもを育てる教育こそが日本の力になるという考えの下、派遣を希望する200人の中から選抜された3人のシスターが日本に骨を埋める覚悟で貨物船に乗ってやってきたということです。
日本の復興途上の時期に、あえて大変な苦労をして来られたのですね。
小学校ができたのが63年で、私は5期生ということになります。ですから、この学園をつくった3人のシスターから直接教えを受けているんです。まさに、それがいまの仕事の原点となっています。
こちらの写真(コラム参照)は、そのシスターと?
はい、とても大事にしている写真で、真ん中にいらっしゃるのが初代校長を務められたシスターのリタ・デシャエンヌ先生、その右に写っているのが小学校1年の私です。運動会のときに撮ってもらったものです。
かわいい!
校長先生と写真を撮る機会はあまりないと思うのですが、自分が校長を務めるいま、入学式のときに一緒に写真を撮りましょう、とフェイスブックなどで呼びかけているんです。
校長先生が相手だと、遠慮しちゃいますものね。でも、そういう写真が残ればいい思い出になるはずですね。
ところで、萩原さんを「神様の学校」に入れようとしたお父さまは、どんな方だったのでしょうか。
父は長野県の出身で、高校卒業後に上京し、働きながら夜学の短期大学で電気の勉強をしていました。このとき、勤務先にカトリックの方がいて、一緒に教会に通うようになり、洗礼を受けてカトリックの信者になったということです。
だからカリタスに入れようと……。
授業参観にも、いつも父が来ていました。
その時代では珍しいですよね。それだけ、お嬢さんの様子を見たかったのでしょうね。
それが違うのです。参観日に来るのはほとんどがお母さんですが、みなさん、きれいな着物やワンピース、スーツなどで来られます。実は、わが家がクラスで一番貧しく、父が行くのなら、会社に着ていくスーツで済むという理由からだったんです。
私立小学校ならではの事情があったのですね。
入学当時は借家住まいで、母は内職をしていました。父30歳、母27歳のときに私は小学校に入学し、3年生のときに父が会社を辞めて独立・起業したということもありました。
そんなに若いご両親が学費を負担するのは、並大抵のことではありませんね。
でも当時の父は、友だちのお父さんより若くて背も高く、格好よかったので、私にとっての自慢でした。「あのお父さん誰?」と話しているのを聞いて「私のパパよ!」と(笑)。
普通、女の子はある時期から父親を敬遠するものですが、私は思春期になっても父が大好きで、いろいろな話をしましたし、父から一番影響を受けたと思います。
理想的な父と娘の関係ですね。
素行不良で「親の心子知らず」でしたが、両親は精いっぱいの愛情と教育を与えてくれたと思っています。
後半では、萩原さんが教職を志し、現在に至るまでのお話を中心にうかがいたいと思います。
(つづく)
●大切にしている2枚の写真
1枚は、本文でも触れた小学校1年生の運動会のときに、リタ校長先生と一緒に撮った写真。まさに萩原さんの原点ともいえる。もう1枚は、上智大学大学院修了時に総代で証書を受け取る姿。実は最前列にお母さまが座っており、その隣りの席が一つ空いている。「見えないけれどそこに父が座っていたようだ」と、萩原さんは話してくれた。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
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※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。