1995年スペインGP表彰台での原田&監督レイニー 1986年から2008年まで22年もの間、HRCの主に海外レース活動に従事した富樫ヨーコ氏。フリーライターとしても活躍し、HondaのGPマシン開発史や世界GPライダーたちの軌跡をテーマに、多数のノンフィクション作品を手掛けてきた。
彼女が見続けた二輪レースの人物たちに迫るコラムをオートスポーツwebにて掲載。第1弾は、1993年にロードレース世界選手権250ccでチャンピオンを獲得した日本を代表するレーサー原田哲也氏に迫ります。彼女が振り返る原田哲也とは?
■僕だけは違う
原田哲也は1993年に世界グランプリ250ccチャンピオンになった。しかし、その年は原田にとって良いことばかりではなかった。5月に先輩で親友でもある若井伸之がスペインのへレスで事故死した。
若井は原田にとって兄のような存在だった。原田より2年早く1991年から世界グランプリを回るようになった若井は、原田にヨーロッパの各サーキットの特徴やライン取りといったかけがえのない情報を教えてくれたのだ。
若井が亡くなった翌日行われたスペインGPで原田は独走優勝した。最後の方は涙で前がよく見えなかったが、若井のために走り切り、その勝利を友に捧げたのだった。
原田は若井の他にも先輩の永井康友を1995年にオランダのアッセンで亡くしている。また2003年には、250cc時代からのライバルで、2002年には共に500ccクラスで戦った加藤大治郎が鈴鹿で事故を起こし、十日後に他界した。
レースには危険が伴い、時にはそれが死につながることもあるということを一番よく分かっているのがライダー自身だろう。それでも彼らは走り続け、戦い続ける。
レースのスタート前にライダーが胸で十字を切っている場面をよく目にする。
あれは“良い成績を残せますように”とか“優勝できますように”といった願いではなく“生きて帰れますように“という祈りなのではないだろうか。そう、モータースポーツというのはテニスやマラソンの場合と違って、まさに“命がけ”のスポーツなのだ。
では、ライダーに恐怖心はないのだろうか……。
私が原田にそのことを尋ねたのは永井が亡くなったあと、1995年末のことだった。
「若井君や永井君、あと直接知らなくてもF1のアイルトン・セナがレース中に亡くなったと聞いてどう思いますか」
ライダーにとっては一番デリケートな質問なので、たとえ原田が答えてくれなくてもいいと考え、言葉を選びながら尋ねた。しかし、原田ははっきりとした口調でこう答えてくれた。
「やっぱりね。皆、自分は死なないと思っているんですよ。亡くなったのは不運だと思うけど、僕にはないなと考えて走っているんだと思います」
「走り出して集中していると恐怖心って消えちゃうと思うんです。そこで恐怖心が沸いてきたら、もうレースをやめた方がいいんじゃないかな。僕がそうなったら、もうやめます」
これはまさしく原田の本心だった。これを聞いた瞬間、私は自分と原田の間に存在した見えないバリアが消滅するのを感じた。
■チーム・レイニー
1994年、原田哲也は250ccクラスでゼッケン1をつけて連覇をめざしたが、叶わなかった。
開幕戦オーストラリアGPの予選初日に転倒して右手首を骨折し、その後もマシントラブルに見舞われ、結局一度も優勝することなく、ランキング7位でシーズンを終えた。1994年にチャンピオンになったのは前年ホンダに乗っていたマックス・ビアッジだった。
タイトルを失っても、原田はさほど落胆しているようには見えなかった。自分の実力で負けたのではなく、マシントラブルで失ったレースが多かったので仕方がない、とさばさばしていたのだ。これは原田のメンタルが強いことの証明だったのである。
翌1995年、原田はウエイン・レイニーのチームに加わった。
レイニーは1990〜92年と3年連続500cc世界チャンピオンになったアメリカ人ライダーで、4連覇をめざしていた1993年のイタリアGPで転倒し、下半身不随になって引退したが、翌94年にはチーム監督としてGPに戻ってきた。
原田はライダーとしてのレイニーを尊敬していた。何かトラブルがあっても決して言い訳せずに自分の力で何とかして勝とうとする姿勢が自分の戦い方と同じだと見ていたのだ。
またレイニーの方も原田のことを高く評価していた。
「原田のデディケーション(打ち込む姿勢)は僕とよく似ている」とレイニーは1995年のシーズン開幕前に語った。これは最高の賛辞だった。
そんなレイニーに「95年に原田はチャンピオンを取れるか?」と尋ねてみた。
「原田ならできると思うが、そのためにはヤマハ側が最大のサポートをしなくてはいけない。でも原田は250ccライダーの中ではベストだよ」
前日、私は原田に監督としてのレイニーはどうか?と尋ねている。
原田は「レイニーさんは自分の意見をおしつけてこないところがいいですね」と答えた。そのことをレイニーに伝えると、彼は嬉しそうにこう答えた。
「そう、僕はまだレーサーなんだ。原田もその方がやりやすいだろう。僕はあまり多くを語らずに考えるヒントを与えるだけにしている」
1995年、原田哲也はビアッジに次いでランキング2位でシーズンを終えた。優勝したのはスペインGPの1回だけだったが、ダッチTT以外のすべてのレースで5位以内に入っていた。
しかし、ビアッジの乗るアプリリアと原田の駆るヤマハとの差は歴然としており、シーズン終盤のアルゼンチンGPで原田は0.1秒という僅差でビアッジに競り負けた。
その時のレース後のインタビューで原田が語った『ビアッジに負けたのではありません。アプリリアに負けたんです』という台詞は名言として残されている。
1996年、原田哲也はウエイン・レイニーのチームで2年目のシーズンを迎えた。本来だったら信頼関係も深まり、一丸となって“打倒ビアッジ”を目指したシーズン。しかし、現実は予想とは反対の結果となってしまった。
当時はまだタイヤは今のようにワンメイクではなく、各チームが選択することになっていた。多くの500ccチームがミシュランを選択しており、1996年から500ccクラスにも参戦するようになったチーム・レイニー(ライダーはカピロッシ)はミシュランと契約。それまでダンロップを使ってきた250ccクラスの原田もミシュランを使うことになった。
ミシュランとダンロップではまったく特性が異なっていた。ミシュランは終盤の耐久性に優れていたが、序盤の数周に関してグリップが不足していた。しかし、ライダーに序盤は抑えていけというのは当然無理な話だったのである。
1996年開幕戦マレーシアGPではビアッジに続いて2位に入り、第2戦インドネシアGPで優勝した原田は第3戦日本GPで転倒。その後ヨーロッパへ移動してからも成績が上がらなかった。
その直後、原田はタイヤをダンロップに変えたいとレイニーに直訴したが認められなかった。
レイニー自身は現役時代にフレームをワークスマシンのものからROC(コンストラクター)のものへと変えていた。勝つためにはベストな装備を求めていく。だからこそ原田はレイニーならば自分の気持ちを理解してくれるだろう、と期待していた。
しかし、レイニーが原田の要望を却下したため、ふたりの関係は悪化。ピット内でも口をきかないほどになっていた。
原田は9月初めのイモラGPを最後に3戦を残して1996年シーズンを終えた。ちまたでは、レイニーが原田に愛想をつかして首にしたという噂も出ていたが、原田は取材には一切答えず、帰国した。
そして、翌1997年からアプリリアのワークスライダーとなった。
原田 哲也
1988年から全日本ロードレース選手権250ccクラスに参戦。1992年には250ccクラスチャンピオンを獲得し、1993年からヤマハワークスライダーとしてロードレース世界選手権に参戦する。 開幕戦のオーストラリアGPで初優勝を挙げると、日本GP、スペインGP、そして最終戦のFIM GPでも勝利しチャンピオンに輝いた。1997年にはアプリリアに移籍、1998年も最終戦の最終コーナーまでチャンピオンを争うが3位に終わる。 1999年は500ccクラスに参戦し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。2001年から再び250ccクラスに戻り、ホンダの加藤大治郎と熱戦を繰り広げランキング2位を獲得。2002年は500ccクラスから名称を変更したMotoGPクラスにプラマック・ホンダから参戦。このシーズンを持ってロードレースからの引退を発表した。 ロードレース世界選手権での通算17勝、表彰台55回は日本人最多の記録となっている。
著者:富樫ヨーコ
日本の二輪レース文化を伝える著述家のひとり。HRCで主に海外レース活動に従事しながら、二輪モータースポーツを中心に執筆活動を行う。レースの舞台裏にある技術者やライダーたちの情熱を描き続け、主な著書として『ホンダ二輪戦士たちの戦い(旧いつか勝てる)』、『ホンダNRヒストリー』、『ポップ吉村の伝説』、『選ばれしGPライダー』 、訳書に『バレンチーノ・ロッシ』、『ケニー・ロバーツ』、『ハイスピード・ライディング』などがある。
[オートスポーツweb 2026年06月04日]